金曜日

机がない (平成編)


39歳。

それまで8年間、お世話になった会社を退社した。

 

38歳の時に胆石、胆嚢炎で週間入院し、日ほど

自宅療養後、本社に出勤すると、私の机がない。

愛用のiMacもない。


隣の事務員に聞くと、

「副社長に片づけるよう、いわれました」。


会社の経営するパチンコ店舗は、O地区で8店舗、

K地区で店舗、S地区で10店舗あった。


私は年間、O地区で係長、課長として担当し、

そこの8店舗の管理責任者として、実績を残した。

その後、K地区で店舗の大型リニューアルがあるため、

地区の営業所所長として任命され、本社に勤務していた。


費用を掛けた大型リニューアルという事もあり、

少し前から胃周辺部に、かなりの痛みもあったが、

我慢しながら、夜間は新台の釘調整を店舗任せられ、

15時間拘束の中で、心身とも、耐えながら

我慢、奉公してきた答えが、

「戦列離脱者は必要ない」。


副社長は社長の三男坊で、

私は仕事上の意見は、当時から、遠慮せず云って

しまう性格なので、自分は「帝王になる」と、

漫画のようなことを口走る世間知らずには、

気に障るような存在だったようだ。

病気脱落は彼には、いいタイミングだった。

 

社内通達もなく人事担当者から口頭で、

「明日から降格で、O地区に転勤」


翌日から降格し、課長として勤務。

それ以降は、店舗の部下に、業務上の不備や失敗が

あると、私の監督不届きだと、また、降格処分

係長、係長補佐、最後は店長に降格。

次は、主任か班長か。

さすがに年間で、あからさまな肩たたきはひどく、

過去にも社内で同様な仕打ちを傍目で見、

自らも加担してきた身に、まともに返ってきたわけだ。

 「辞めます」

 会社からは勧告はせず、対象者から自主退社を待って

辞めさすのは、この会社のいつもの手順で、

私自身も社内で昇格していく過程で会社に加担し、

何人も辞めさせていた。

 

本社サイドの社員は退社後、会社を相手に

退職金請求や法的処置を取っていた者もいるようだが、

現場サイドでは、同じ業種への転職も多く、

会社を訴えた店長や管理職は、同業種では噂が立って

転職できない。

(経営者同士の横のつながりも遊技組合を通じて多かった。)

 「あほや」

 自分のあほさ加減に幻滅しながらも、

自分のやってきた仕事に自己満足し、また同業種で職探し。

 

昭和から、平成にかけてのバブルの全盛期に、

月2回の休みで、ヤカラやヤクザに囲まれて、

命を削るように釘の調整に夜ごと励み、

当時は1店舗300台ほどの店舗で、5000万から

1億の粗利をひと月で会社は回収しながら、

(そんな店が22店舗もあった)

自身は35万前後の給与で、朝から晩まで

拘束されていたのだから、「あほ」です。




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