火曜日

思い出の酒井先生


中学2年生の時にクラス担任だった酒井先生。

実家が兵庫県の丹波篠山で農業もされており、クラスで

農作業(稲刈り)の体験もさせてもらった。

(授業で行なったのか個人的な主催だったのか、分からない)

というのも一見強面の教師で、男子生徒からはすこぶる

人気だったが、生徒と喫煙、飲酒をしたこと、生徒の

母親と良からぬ関係になった、とか諸々噂話がいろいろとあり、

学校内では諸問題を抱えている所謂不良教師だった。

私はこの先生が大好きで、親父の酒蔵からジョニ黒ウィスキーを

くすね、先生に渡したところ大いに喜ばれた記憶がある。

 

しかし、もともと抱えていた諸問題で学校を辞めることになり、

実家の篠山市へ帰ることとなった。

 

中学3年の夏だったか、高校生になってからか記憶はあいまいだが、

先生の実家へ同級生数名と1泊旅行で遊びに行った。

 

お父上は地元で中学校の校長先生をされており、その縁で再就職

も同じ中学校の教師を続けるようだった。

 

先生の実家は大きく、大きな庭の縁側で取れたての冷えたトマトに

砂糖をかけ、みんなでいっぱい食べた。夜は、僕ら(7~8人いたか)

のために、軽トラックの荷台に皆を乗せ(違反だが)、近くの山の上に

テントやバーベキューをセッティングし、酒を置いて、一晩自由に

キャンプをさせてくれた。

 

山上は、明かりは焚火だけの電灯一つない真っ暗な状態だ。

生まれて初めて漆黒の闇を経験し、真上には落ちてきそうなくらいの

星々や流れ星が見えた。

 

都会育ちの僕たちは一晩中興奮し、朝まで焚火の前で酒を飲み、

騒いでいた。

翌日、山上の声は下界でも良く聞こえ、「楽しそうだったな」と。

 

その後、違う高校に行った友人たちや、就職した友人もいて、

それぞれ新しい関係ができ、会う機会がなくなった。

酒井先生とはその後、まったく連絡しなくなり、私も今回、FB

友人たちの投稿を見るまで、酒井先生のことをすっかり忘れていたが、

あの日の夏の日の思い出はよみがえった。

 

あー、あの時、あんな先生がいたな。

うん、いい先生だった。




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月曜日

「必勝法」


パチンコ業界に入ったのは昭和も終わりに近づく頃だった。

元号が変わり、平成の30年間はずっとパチンコ屋で働いた。

 

地方の田舎のホールから大阪、京都を中心に自身が釘調整を

行い関わったホールは大阪では7店舗。京都でも6店舗。

会社は数社移籍したが、滋賀県で3店舗、福井県で2店舗に

関わった。

そのうち店長として終日勤務した店舗は3店舗のみで、案外

店長経験は少ないと思う。

 

店舗長を指導・補佐しながら店が円滑に運営できるように

求人募集、機種構成・機種の選定、会社からの予算に合わせ

月間の粗利予算を作成し実践していく。

 

平成の初めは連チャン機種(連続性の高い)フィーバー機を

中心に、出玉の多い3回権利機種や一発機と言われる特電機

も活躍しており、単価も高いこともあってフル稼働の店舗は

少なかったが、まだ多店舗化には遠く、競争は少なかった。

 

それから建前は、業界のINOUTのクリア化、脱税防止の

設備変更として行政はクリエーションカード化を推進していく。

大きなシステム変更だ。平成4年頃くらいからか。

 

パチンコの遊技機は特許権の絡みで新規参入、開発は難しい。

パチンコ業界の「旨味」「利権」を遊技機以外の設備関連に見出し、

行政の天下り先や関連業界へ振り分けて行こうとするが、いつの

時代でもそうだが役人が絵を描いてもうまくいかない。

 

出だしのカードは偽造が蔓延したテレフォンカードと同種で、

暴力団関係者に不正カードを大量に流用搾取され、カード会社は

多大な損失を被った。他にも利権がいろいろと絡んで、「わざと

じゃないか」と思うくらい、欺瞞に満ち溢れた嵐の船出だった。

 

しかし、行政が推進するカード化されたパチンコ設備を増やす

には、ホール側が欲しい遊技機にするのが必要で、射幸性の高い

パチンコ機械の開発は必須だった。

 

当時主力だった現金で遊べる機種はギャンブル性が高いと、順次

撤去させ、さらにギャンブル性の高いカードユニット付の遊技機に

変更させていく矛盾。

 

開発するメーカーも、それを許可・認可する行政側も、購入する

ホールも、それらを取り締まる警察も、遊技機の性能の異常性や

業界の本来の在り方(身近な大衆娯楽)からどんどん逸脱して

いき、熱にうなされたように業界は肥大していった。

 

30兆円産業。遊技人口3000万人。全国18000店舗。

 

パチンコで高まった射幸性はパチスロ機種の開発にもつながって

いき、パチンコ・スロットのホール設置比率が1:9か2:8程度

のスロット機が、5:5になり、オールスロット機のパチスロ専門店

までもが登場する次第になって、業界は完全に浮かれてしまった。

 

 

2020年4月の自粛休業。

重なるコロナ規制。

 

2022~23年

遊技機への規制、撤去。

 

昭和の時代から続く規制と緩和の繰り返し。

 

パチンコ店舗数は全国で7000軒をきっているらしい。

 

2023年からは平成に行われたクリエーションシステムから

新たにスマートパチンコ・スロットへのシステム変更。

 

規制と緩和。

 

今度の緩和はもう業界復活には繋がらないだろう。

パチスロのスペックは大阪のカジノでは活かされるかな。

 

どんな業種でもそうだけど、資本家たちはイイ思いをしてきた

し、既得権益をもつ輩たちはこれからも必死に守ろうとするだろう。

 

 

いま、パチンコ・スロットが大好きな皆さん。

ギャンブルに適度はないと自覚し、違うことに興味を振り向けよう。

 

 

「パチンコ必勝法は!?」

 

「やらないこと」



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金曜日

運転手2


過去を振り返ると、恥ずかしいことばかりだ。

綱渡りのような転職や、不義理を重ねてきた先輩、同僚には

申し訳ないところがいっぱいある。

物の道理が分かっていなかったのだね。

特に20代は「筋の通らない」ことばかりしてきて、迷惑ばかりを

掛けてきたように思う。

受けた恩は返さなければだが、その感覚、感性もなかった。

 

世の政治家や身近にいる年寄り連中を見ると、品性下劣なジジイも

多く、経験値が人を豊かに、優しくするようでも、年を重ねれば

人格者になるのでもないようだ。性悪人間はいつまでも性根が腐って

いる。

 

小学生のころから心根の優しい、思いやりのある友もいた。

人の核(格)というものは生まれた時から備わっているのかも

しれない。人は生まれると同時に行く末が決まっているのだろ

うか。世の中にはいろいろな人がいる。

 

 

生活介護施設に通う朝の利用者の大半は知的障害の判定基準

(療育手帳)では最重度、重度の人が多く、会話が出来ない。

新しい運転手を認識しているかどうかは分からぬが、車内の

空気感は今のところ静かに流れている。

 

この3週間で、利用者の特徴、個性は感じるようになってきた。

いつも助手席に座る高齢のTさん。左に曲がるときはサイド

ミラーをのぞき込み、巻き込みに注意している。不意な飛び出しや

駐車違反には短い発声で私に知らせてくれる。

 

「ありがとう」 頬が緩んだ。

 

同じく高齢者のYさんは中度の障害で、「あつい、あつい」と後部

シートへ足を引きずりながら移動する。奇声を発する同席者に

注意を促し、「うるさい。お茶を飲んで」と緩衝役だ。

 

20歳前後の娘さん二名は、車に乗り込む際にお母さんとの目での

会話が微妙な時がある。母娘、お互いの思いがいろいろある様だ。

 

聴覚過敏でヘッドホンをかぶる一人の娘さんは、「Yさん、おはよう」

を何度も繰り返す

Yさんは何度も返答するが、「Yさん、好き、おはよう」の繰り返し。

 

「・・・もうええ」

 

20代の男性二名。一人は体格も良く、見た目はジャイアンだ。

奇声を発しながら車に乗り込む。一見武闘派だが、一度頭を小突かれた

だけで運転中は協力的だ。奇声を発するのでYさんに注意される。

 

もう一人の男性は私が頭を小突かれたときに間であしらってくれ、

穏健な感じだが、障害程度は重く、見た目では分らない。

 

毎朝、彼らを迎えに行き、無事に介護施設へ連れてくるのが仕事だ。

なかなかの個性的な面々だ。毎日同じルーティンで同じことを

繰り返していく。

2時間弱の朝の時間だが、彼らから仲間だと認めてもらえる日が

来るだろうか。安心を感じてもらえるよう注意していこう。




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ぱちんこ屋


パチンコホールの営業時間は店舗が立地する組合(都道府県)

によりまちまちだ。9時か10時開店、23時か24時閉店。

24時閉店の店舗は日が変わる前には店内から遊技客を一掃

しなければいけない。開店前も閉店後も時間外に遊技客を

ホールに入れてはいけない。

景品交換もあるので15分前には閉店告知マイクを入れる。

 

年末年始には京都や三重の観光地など、特別営業として、日を

またいで25時まで、もしくはオールナイト24時間営業も可能

な地域もあり、それぞれの都道県ごとの組合の申し合わせにより

さまざまだ。

(当然、公安、所轄の承認の元、観光地での治安やトイレ不足

解消のため始まったようだが、コンビニが各地に普及している

現在、パチンコ店の営業時間延長は不要だろう)

 

「本日も最終最後までのお付き合い、誠にありがとうございます」

 

「明日もご近所お友達お誘いあわせの上、揃ってご来店いただけます

よう、店主並びにスタッフ一同、こころよりお願い申し上げます」

 

店内放送はいつも回りくどく、大げさだ。

 

「本日もお足元の悪い中、お忙しい中、多数のごひいき、ご来店

誠にありがとうございます」

 

「本日も常日頃のお約束通り、出ます出します取らせますの三拍子は

もちろんのこと、1番台は元より、最終ナンバー○○○番台にいたり

ますまで、どちらのお客様もご満足いただけるよう、釘調整、機械

調整は万全に、大きく、広く、開けてございます」

 

「さすれば、さあ、どちらのお客様も、お時間の許されます限り、

ごゆっくりとご遊技下さり、本日のよりよきラッキーを、ご幸運を、

しっかりと、がっちりと、さあ、さあ、お掴みとり下さいませ」

 

「ありがとうございます、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」

 

昔のホールは4、9抜きで遊技台の通し番号に4、9、14・・・

は使用していなかったが、経営者の考え方次第だ。

 

最近はコンピューター音声で案内放送を流すので、人が発声する

のは、緊急時の時ぐらいだろう。

 

2023年度からは、玉やコインが個別の遊技機内のみ循環する

スマートパチンコ・スロットになれば、遊技玉が島内に流れる音などの

騒音もなくなり、店内のノイズは遊技機から発するゲーム音だけになる。

店内のBGMから流行歌が流れなくなり、マイク放送もない。

 

たばこの煙とガラス面にあたるガチャガチャとうるさい玉の音、

かしましい遊技機のゲーム音、勝った負けたの殺気が漲る人込みで

あふれる喧騒のホール。その時々の記憶に残る歌謡曲。

 

「賭場」の匂いもなくなって久しいが、昭和から知る「ぱちんこ屋」は

これからもっと大きく変わっていくのだろう。




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木曜日

カジノ


パチンコ店での営業部勤務の時は毎日、パチンコ・パチスロを

打っていた。京都の準大手のパチンコ店に勤務していたころは、

給与明細書と一緒に調査費として5万円の現金の支給もあり、

社長曰く、「暇があれば他店でパチンコしろ。いろいろな機種や

その店舗の雰囲気、出玉率を客の立場で勉強しなさい」と。

 

拘束時間も長く、休日も少ない。

もともとパチンコ好きでこの業界に入った人間ばかりだ。

調査と、かこつけて他店のホールで終日過ごす営業部員もいて、

そうなれば5万円の調査費などは、焼け石に水だ。

 

CR機種が出始めの頃の機種は、玉単価が2円近くあり、

1時間の打ち込みが、1分間100個×60分で6000個、

かける2円で12000円。

2時間、3時間、回せど回せど大当たりは来ないのも珍しくなく、

万札がどんどん吸い込まれていく。

ミイラ取りがミイラになる営業部員も多くいたが、社内では

特に問題提起されることもなく、去る者は追わずの無慈悲な

体質はどの会社でも似たようなものか。

 

ギャンブル産業は、ハマる、依存する、中毒になる多くの

ユーザーがいて成り立つ産業だ。

 

パチンコもカジノも、競馬も競輪も、負けが込む人たちが多ければ

多いほど儲かり、人の不幸で成立する。博打だ。

 

さて、認可が降りた大阪の「カジノ」の行く末はどうなるだろう。

気軽に行けるギャンブル場がいっぱいある日本で、わざわざ負ける

確率が高い「カジノ」に行く御仁は、そんなにいないだろう。

 

夢洲の未来はすでに明らかだ。地盤沈下の対策費、カジノ事業の

不振。何よりも近未来に必ず起きる東南海地震の影響。

 

誰も責任は取らず、「仕方ない」になるのかね。

いつまでも「お人よし」なら本当に殺される日も近い。




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月曜日

「生きる」2


私の母は本年88才。妻の母は90才になる。

二人とも足腰は弱ってはいるが、まだ呆けずに口は

達者なようだ。

 

私は母とはもう1年ほど会っていない。

妻の母とは2019年の年末に、コロナ騒動が本格化

する前に次女夫婦を伴って渡韓したので、3年前になる。

 

親族の上の世代では、男性は母方の12才上の若いおじが

存命するのみで、みなさん天に召された。

歳月があっという間に過ぎて行くのが不思議な感覚だ。

気付けば・・・だ。

 

今まで別れがたくさんあり、これからも近しい人にも同様に

その時が来るのは受け入れざるを得ないが、平静は失われない

が、なんとも微妙なざわめきを感じるこの頃だ。

 

私は凡庸に生きてきた人生だが、あまり後悔はない。

 

あの時こうすれば良かった、ああ、もっと違う選択があった

はずだ、などは、平平凡凡に生き、岐路に立たされた土壇場に

布石を打つ用心深さや決断もなく、その度々に流されて現在に

たどり着いた私には、今はなるようにしかならなかった現実が

あるからだ。

 

と、云いつつ、「生きる」のまだまだ続きがありそうだ。

今まで通り、「生きる」ことは難しくない。なるようになる。

私が幼少の頃、祖父母に手を撫でられたように、私も孫たちの

手を愛しく撫でながら、彼らにぬくもりを残していこう。




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木曜日

運転手1


平日の朝、障害者施設の送迎のアルバイトに行きだした。

60の齢を過ぎる頃より朝の目覚めが早く、ちょっと早く

寝てしまうと、新聞配達の時間になるや頃から目が覚めて

しまい、午前中に時間を持て余していた。

 

幸いハローワークの求人で自宅からも近く、時間の都合も

良かったので、面接に伺い、採用していただいた。

 

生活介護施設を出発し、35キロほどの道順を順次周り

2時間ほどで施設に連れて帰ってくるドライバーだ。

 

まだ2週間足らずだが、コースの道順は覚えた。

グーグルマップの画像で実際のコースを周り、休日にも

一度自家用車で巡回して覚えた。

 

仕事に関しては、私は真面目なのだ。

 

「○○さん、おはよう」

「おはよう」

 

「○○さん、おはよう」

「おはよう」

 

「○○さん、おはよう」

「おはよう」

 

「○○さん、おはよう」

「・・・」

 

「○○さん、おはよう」

「おはよう」

 

「○○さん、おはよう」

「・・・もう、ええ」

「おはよう」

 

「あ~!う~!」  「イヤー!」  「ヒエ~」 

 

「ははははは」   「にいーやあー」

 

時間はうららかに過ぎて行く。

 

十分に安全運転を心掛け、平常心で続けよう。




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