月曜日

引退のご挨拶


競馬、競輪、競艇。

競馬は一度もしたことがございません。

競輪は福井県にいた時、1度。

京都ではオーナーに付き合わされ

向日町競輪へ1度参りました。

競艇は、センタープールで生まれた尼崎育ち

にもかかわらず、1度も行ったこともございません。

花札は、見様見まねで遊んだだけで、

賭けて遊んだことはございません。

麻雀も牌を揃えて、リーチくらい、でございます。

 

世間の皆さまは結構な頻度で、さまざまなギャンブルを。

私は、長年「パチンコ店」の胴元の支配人をしてきた

ちんけな男でございますが、ギャンブルに関しては

まったくの素人でございます。


こんな素人が、長年皆様の大切な小遣い銭を

かすめ取り、搾取していたのでございますから、

大変申し訳ございませんでした。


ギャンブルの素人が数百億円単位の売上の中で

泳ぎ渡って生きてきたのですから、

「物事は知って得する」ことも多いでしょうが、

私は「知らぬが仏」を決め込んで、

グレイな業界を泳いで参りました。

 

次から次へと訳の分からない「新台」が、

出るたびに「知ったかぶり」で30年。

もう限界でございます。

 

一足先に「足を洗い」まっとうな道を歩んでまいります。

長年のお付き合い、誠にありがとうございました。




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閃輝暗点(せんきあんてん)


閃輝暗点は、ふとしたときに突然視野の中に

ギザギザ・キラキラとした光の波ができ、

次第に広がって暗くなり見えなくなるという現象。

長くても20分程度で消えていき、

症状が治まった後に片頭痛が起こる。

若いときほど回数が多く、年齢と共に回数が減って

いくことが多い。

ネットで検索すると上記の説明が一般的だ。

 

私は14才くらいから割と頻繁に

上記の症状が出だした。蛍光灯が切れかかったように

点滅し、視野の中央が暗くなって見えなくなることが

多かった。特に徹夜などして目が疲れているような

状態の時に出現する。テスト中にこの症状が出れば、

10分~20分くらいは集中できない。

視野の半分近くが見えなくなるので問題を読めなくなる。

 

現在の歳まで発症の回数の多少はあるが、

症状が途切れたことはない。

 

50年ちかく悩まされていることになる。

親や友人にはこのことは話したことはない。

 

若いころから何度か眼科医で診察、検査もしたが、

眼科医的な見地では問題はないと、複数の眼科医から

診断を頂いたが、そもそも「閃輝暗点」という病名も

20年前くらいまでは聞いたこともなかった。

 

10年前に心臓弁膜症の手術以降、ネットをみると

心臓疾患者にこの症状が多いようだが、

わたしも実感として、血管(毛細血管)の血流が悪いのでは

ないかと思っていたが、

脳の問題だと大学病院では診断された。

「てんかん」同様、脳波の乱れと関係があるようだ。

症状が多発するようなら薬で抑制もできると診断された。

 

大動脈弁の二尖弁同様(本来は三尖弁)、この「閃輝暗点」も

私の10代の心身の発達に影響が大きく、自分の身体に、

「違和感」を感じる「異邦感」は、隠していた「国籍」とともに、

より内向的に向いてしまい、自分をもっと世界に広げ、開放していく

ことが出来なかったと思う。




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土曜日


K市で大型店舗のリニューアルを担当していたころ

身体の調子がおかしかった。どうも胃部周辺が重たい。

たまに突き刺すような痛みもある。

 

店舗の道を挟んだ反対側に「餃子の王将」があった。

閉店後、役職者を連れてよく食べに行った。

夜中の0時ごろから、みな腹いっぱい食べた。

パチンコで勝った日などは「焼き肉」を散財した。

 

夜中にたらふく食べるので、胃が重い。

胃薬を飲みながら、「胃下垂では」と仮眠室で逆立ちする。

そうやって胡麻化していても、なかなか体調は改善されない。

それどころか、明け方近くに帰宅し、10時には出勤していたので

通常でも4~5時間しかない睡眠も、寝むれなくなった。

 

とにかく「痛い」「苦しい」「うなされる」ような、

状態が3日間ほど続き、ついに出社前に我慢できずに

スーツを着たまま、目についた病院に飛び込んだ。

 

エコーで見ると大きな胆石が見える。

「急性胆嚢炎」

その場で、緊急入院ということになった。


結果、胆石、胆のうを取り、退院まで2週間ほどかかった。

その会社には8年間在籍したが、その間健康診断は一度も受けず。

この顛末は「机がない」でも書いたが、会社も社員も当たり前のように

自らの命を「ぞんざい」に扱っていた。

「悪夢を見る」3日間で体重が5キロ落ちていた。

その1年後、この会社を辞めることになるが、

その会社の当時の社長は10年前に他界し、当時22店舗

あった店舗は令和の今、7店舗になっている。



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金曜日

誕生日


「本日は、当店店長の誕生日であります!」

「よって、今から1台ずつ、釘を開けていきます!」

 

店内では軍艦マーチが鳴り響き、当店主任が高らかに

宣言したものだから、順番に台鍵を開け、続いて右手に

ハンマー、左手に11.12のゲージ棒を持って、

慎重に淡々と叩いていく。


対象機種は「スーパーコンビ」だ。


店長の誕生日だからって、釘を開けることはないが、

要は「イベント」の一環として景気づけで

「開店〇周年記念」「この機種設置○○日記念」とか、

なんでも勝手に銘打って呼び込みマイクで

煽っていただけだ。

 

いっきにその島に客が集まって、

いっきにその列の売上が上がる。


客の目の前で叩くので、

「あ、ごめん。開けすぎた」と

言って閉め直すわけにはいかない。


11.04~11.08が通常のゲージ幅で、

11.12なら全台15時開店のゲージ幅なので、

予定割数は20割(200%)だ。

当然、赤字収支になる。

 

「しまった。開けすぎた!」

と内心で舌打ちするが、どうもしようもない。


「スーパーコンビ」は入賞しても回転体の入賞口は

/3の確率だったので、

(台の勾配を変え、実質1/5~1/6になっていた)

飛び込みが少々甘くなっても、外れも多く、

まだ扱いやすい。


当時も今も遊技客の前で調整をすることは

認められないが、「瞬間芸」なので、現行犯逮捕はない。

 

先ほどまで2、3千円に1回入るくらいなのに、

調整以降、千円に1,2回飛び込むので、客は熱くなる。

 

しかし、これは禁じ手なので、あまりやり過ぎると、

目の前で開けるまで客が打たなくのは、いうまでもない。




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未来


パチンコで遊ぶのが好きで、業界に入ってくる

子も多いが、全くパチンコをした経験もなく、

給与、待遇面のみで判断して入社してくる子もいる。

 

彼らには閉店後しばらくの期間は

パチンコ・スロットを実際、遊技してもらう

ところから始める。

ゲームの仕方、内容がわからなければ、

処理の仕方を教えても理解できないからだ。

 

不思議なもので金銭が絡んでいないと

不思議とよく当たるものだ。

調整後の試し打ちでも、比較的早く大当たりを

引くことがある。実際、新台時には、

メーカーによっては初期稼働では

当たりやすくなっている時代もあった。

 

当たれば面白いので、休憩中や休日に

他のホールで遊びだし、はまってしまう子もいる。

現実に毎日、多くの客が大当たりを引くのを

目の当たりにして、興味を持ってしまう。

要注意だ。

依存症対策はいまや業界の最重要課題のように

行政から指導されるが、本来なら、入り口の段階で

ギャンブルに対する免疫や対応力を教育機関の中で

教えていく必要があるだろうと感じる。

 

今の義務教育期間に投資・性教育・ギャンブル・

アルコール・麻薬・交通ルールは社会に出る前に

どれくらい「問題意識」として

認識させているのだろう。

 

世の中は誘惑だらけだ。

 

テレビでは美味しそうにお酒が飲まれ、

有名タレントが和気あいあいと馬券を買い、

議員の援交問題でも首にならず、

全国どこに行ってもパチンコ店は存在し、

国は新しい資本主義だと投資を薦める。

 

あちらこちら電柱だらけの狭い道路では

軽車両である自転車が左右入り乱れて走り回り、

相も変わらず「青い性」を商売のアイテムとして

利用している。

 

自分の票を確保するために、カルト集団に

身を売るような政党が、長年この社会を

けん引してきた、怖ろしさ。

それを黙認、支持してきた自覚もない

絶対多数の人々。


当たり前に教えられてきた「民主主義」って、

皆が「幸せ」になる体制ではなかったのだ。


自分の国の若い子たち、子どもたち、女性たちを

大切にしない社会には、もう未来はないね。




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木曜日

小遣い


K地区では本社の下にテナントを置き、

7階までが駐車場で8回の最上階に本社を置いていた。

Fのテナントは当然「本店」となる。

 

この本社ビルのすぐ近くに社長宅があった。

閉店間際、社長がふらりと本店事務所に顔を出す。

 

「店長、金庫から100万、貸しといてくれるか」

 

いまから市内の花街へ遊びに行くようだ。

「はい。どうぞ」

店長は毎回のことなので、準備している茶封筒にいれ、渡す。

社長は、封筒の口を開け、10枚の万札を店長に、

「こづかいや」

 

本店の歴代の店長は、近所に社長宅もあり、上が本社もあって、

常にプレッシャーにさらされるが、このような恩恵もある。

社長の花街訪問が多い月は、

「こづかい」のほうが本給より多かったようだ。

 

私は違う地区の担当が多かったので

一度もそんな恩恵に当たることがなかった。

数年後、K地区の担当になった時には、

「こづかい」を期待していたのだが、

市内の繁華街の店舗改装中に社長とよく行った

近所の立ち食いそばでは毎回、

「払っといてくれ」

小銭は持たないようで、販売機で飲料を買う時も

「出しといてくれ」

 

昭和の時代は、報奨金として、全店店長を集め、

封筒が立つような現金を配っていたようだが、

私がこの会社に入ったのは平成以降で、

その種の恩恵にはまったく当たらなかった。

 

翌年のお正月、珍しく社長から、その場にいた数名に

お年玉が出た。

ここ数年、会社からのお年玉制度もなくなり、久しぶりだ。

 

うすい・・・・

 

開けると、

千円札が1枚・・・

 

全員で「さすがやな」

だから、こんなに会社が大きくなっているんだよね。 




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火曜日

キムチ


ある時期からホールに冷蔵庫を置き、キムチの販売を

始めたことがあった。社長からの指示だ。

 

大阪地区では端玉の処理が500円切り

(500円は換金、499円は端玉として一般商品と交換)

だった、こともあり499円以下の商品の充実をはかっていた。

 

多くはタバコの交換かペットボトルのお茶や菓子だが、

カウンター嬢は社長からの強い要望があり、

まず、キムチを薦める。

 

当初は珍しいこともあり、よく売れたが、臭いも強く、

毎度キムチの持ち帰りというわけにはいかず、

徐々にフェードアウトしていったが、販売当初より、

社長からのキムチ連絡で辟易してしまった。


「今日はいくつ出た?」

「キムチの反応はどうだ」

「もっと売れるように工夫しなさい」

ひっきりなしに携帯にかかってくる。


パチンコの営業には、めったに電話もかけてこない人が、

キムチの売上にはシビアだった。

 

似たような事例で、当社の系列店でもない店舗に、

その店舗の営業の底上げのため、

夜間、釘の調整を含めて応援に行かされたこともあった。

 

その店舗の社長はまだ若い女社長だったが、

うちの社長の「愛人」と聞いた。

 

今回のキムチ販売会社も同様に、「愛人」のようだ。

 

まったくの公私混同だが、誰も何も言えない。

 

いずれにしても一過性なので、

熱が少し冷めるまで看過するしかない。

しかし、閉店後のホールは、にんにく臭かったなあ。




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月曜日

ネズミ捕り


いつもの国道で、いつものネズミ捕りがある、

知られた箇所があった。

自分でも認識していたし、毎回注意して走行していた。

しかし、

考え事をしていて、失念してしまった。

「しまった!」

判っていたのに、うっかりした自分に腹が立った。

 

止められ、メーターを見せられ、30キロオーバーだ。

頭に血が昇ってしまった。

 

「右側から白いスポーツカーが追い越していった」。

 

何度も押し問答が続き、

パトカーの後部座席に移され、説得される。

自分自身に腹がたってしょうがない。

「わかっていたのに」


完全拒否。サインも認めもしない。

時間ほど経過し、

「それなら裁判所への出頭ですよ」


後日、裁判所から出頭命令が来た。

全身ピシッと黒のスーツで身を固め、

個室の裁判官の前へ。

 

当時の調書や、状況表などが読み上げられ

 

「白いセダンの・・・・」

 

「私の車はメタリックシルバーですよ」

 

「え?・・・確かに車検証には・・・」

 

担当官が私の調書を作成中に車の色を

白色のセダンと書いていたようだ。

当時は私も一歩も引かなかったので、

時間帯が夕暮れ薄暮になり、色を見間違えたのだろう。

 

たしかに「色が違う」

その場で裁判官は「けっこうです。お帰り下さい」

 

あっという間に不問となった。

 

それ以降、私は10年以上、優良運転となり継続している。





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入替頻度


遊技機の入替の費用対効果がまだ大きかった時代、

2~3か月に1度で少数台数だった入替が

月1回で、ちょっとした台数になり、それから

2週に1回、毎週入替開店と、

どんどんエスカレートしていった。

さすがに警察(所轄)も毎週となると対応に追われ

看過できなくなったので、その地区の遊技組合に要望を

だしてきた。当時から、組合の「事務局長」は、

退職警官出身者(天下り)で2年ごとに交代していた。

「入替は月1回、予約者優先」と

当時の事務局長(元警察署長)から通達が。

 

この元、キッカケを作ったのは私だった。

CRが認可されだし、使えるCR機が出だしたのを

契機に新規開店するたびに店舗の売上が上昇して

いったのだから、遊技機の入替が止まらない。


当時1台20万円台の遊技機を10台導入しても200万だ。

私の担当する店舗は、時間売上200万円の売上だ。

毎週入替をするたびに売上が右肩上がりで上がっていく。

20万円の10台の新台が一日の営業で、100万円売る。

当時の新台の回収率は20%くらいだったので、

毎日20万円回収し、10日で機械代金の回収ができた。


やればやるほど店舗の売上が向上し回収金も増えていく。

私は調子に乗ってしまい、入替申請がエスカレートしていき、

所轄から目をつけられたのだ。


まず、ハンドル固定で目をつけられた。

常連客は隠しながらコインやプルタブ(缶飲料のふた)などで

固定し打っていた。指摘され、指示書処分だ。


店舗見回りで生活安全課がひと廻りすると、

18歳未満の入場、遊技もやばい。

一度目を付けられたらダメだ。

いくらでも法令違反で挙げられてしまう。

 

元警察署長の事務局長を伴って、今回の経緯、顛末を深く反省し、

今後はないようにと、反省文を書かされ、所轄の柔道場で

小一時間ほど正座させられ、以降、事なきを得た。

 

「生活安全課には逆らえない」

「交通課には徹底して抗うけどね」




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年次休暇


会社によっては福利厚生への捉え方は

大きく違うだろうが、私が過去に在籍していた

会社の大半は、ほぼ一緒だったので、

業界の全体値として見てもいいだろう。

前提として、一般社員ではなく、店舗長としての待遇だ。

 

店休日が組合の申し合わせで、月4回だったころは、

4×12で48日(年間)。

有休の買取りもなく、

 

「有給休暇は万一のための休暇で、取得は認めない」

 

年に1度有休用紙を本社経由で上長から配布時、

彼は笑いながら、目の前で白色の修正液で有休日数を

消しながらそう言った。

 

月4回のうち、1日は業者による店舗美装(清掃)がある。

当時はまだ入替の頻度も少なかったが2、3か月に1度は

入替作業と、機械調整があり、それで1日がつぶれる。

 

担当店舗は店長(私)、副主任の2名体制だったので、

交代で店休日に出勤しても、年次休暇は40日以下だった。

公休出勤手当、残業手当は全て役職者手当に含まれるという

搾取を当たり前に、滅私奉公を前提とした給与体系だった。

当時で額面40万円前後。手取りで30万少々だった。

 

その後、平成の7、8年以降くらいから、

組合の申し合わせの店休日は、大手チェーン店の抜け駆けで消滅し、

全国のかなりの店舗は年中無休となってしまったが、逆に

現場では交代で休み易くなった。

 

月5回の公休、年次有休消化6日で66日/年前後。

 

平成の中ごろ以降からは

月6回、年次有給10日で82日/年前後。

 

1年選手も10年選手も同じ感覚なのが業界の怖いところだが。

 

これくらいが、求人募集などを見ての各社平均値かな。

令和の今、業界も廃業店舗が多く、多くの若い人材は

他業種へ流出していったことだろう。

 

ちなみに私は30年以上の業界歴で有休を消化したのは、

2度の大きな手術の時だけで、

辞める年まで週休制だったので、年間52~3日。

辞めると決意した年度に2度有休を取得し、海外へ行った。

 

業界在籍時の最高年棒は1620万円。

系列の清掃会社を含めて、1年間だけだったが。

昭和62年に業界に入った時の店長は

月給50万円、毎月B金(小遣い)50万の

100万円。年収1200万円。

準大手にいた時の上司の統括部長は

後で聞いたが、年収2000万円だった。


関東と関西では、かなりの開きはあると聞くが

一般の職種よりは上位になるだろうけど、

在籍年数は短い。退職金制度もないのが大半だ。


業界の中で、何度かあった遊技機の撤去問題の時は、

いつも経営者はリストラ(人材削減)を謳い始めるので、

その都度、自らの給与も下げ、年収900万円前後。

 

パチンコ業界で35年間。会社は4回変わった。

変わるたびにリセットされ給与は下がったが、

日本は失われた30年と言われる中、

私の30年は心身共に削られはしてきたが、

金銭的には苦労はしなかったことは幸いだと思う。 




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拘束時間


パチンコ店の勤務体系は、二部勤務体制が多い。

早番は9:30~17:00 (休憩1H

遅番は14:00~23:30(休憩1.H

 

実働7時間が一般的で、上記の勤務を二交代で勤務する。

 

夜が遅いので、最初は慣れるまで朝が辛い。

マルハン、ダイナムのような大手企業なら、

週休二日制で年休も100日以上も普通になってきたが、

中小では、まだまだだ。

 

ここから役職者になると、さらに拘束時間は伸び、

一部勤務の早番、遅番として

早番は9:00~14:00  6時間休憩 

20:00~24:00


遅番は14:00~20:00 1時間休憩 

21:00~24:00


9時間拘束、実働8時間が一般的で、

上記の勤務を二交代で勤務する。


パチンコ店の営業時間は、

地域によって各組合の申し合わせにより変わる。

開店時間は 9時~10時が一般的で

閉店時間は23時~24時が多い。

(風営法で24時を過ぎると日をまたぐので禁止)


店舗管理者になると、さらに拘束時間は長く、

昭和、平成の時代なら、店が開いて、閉めるまで。

「拘束時間」と「実働時間」は違う、

というオーナーが多かった。

その代わり連絡がついて、どこからでも駆けつけることが

出来るなら、どこにいても良い。

暗黙の了解だ。

気の持ちようだ。要領の良い店長は、

朝「ちょこっと」顔を出し、近隣店で1日中パチンコも多い。


当然だが、人員が揃っていて、店舗運営が順調にいっている

のが前提だ。会社が火の車ならそんな余裕もないだろう。

生真面目で杓子定規な人間なら息苦しいが、

楽天的な性分で根が不真面目な人間なら逆に

過ごし易いかもね。


でも惰性に流されて結局は長続きしない。

やはり、真面目にルールを決めて日々過ごす習慣がないと、

長い年月勤め上げることは出来ないだろうね。




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金曜日

どんぶり勘定


業界で長くいると、自然と物の捉え方や

思考方法は単純に二元論で行っていた。

「良いか」「悪いか」「やるか」「やらないか」

 

中途半端がいけない。迷ってしまう。

 

行儀の悪い客がいれば、ここまでは良いが、

あともう少しはみ出れば、注意しよう。

今日は仕方ない、明日は。になると際限がなくなる。

決めたことは、今、きっちりと線引きを決める。

OKNOか、だけだ。

 

しかし、パチンコの計数の答え合わせは、

「どんぶり勘定」でなければ、神経が病んでしまう。

 

最初の頃は毎日の結果に、一喜一憂していた。

特に現金機が主流の時代は、デジタルフィーバーの

比率も少なく、釘で割を合わせに行ける機種が多く、

明日の割数予定は135140%。5分くらいの幅で、

「言うことを聞いて」くれた。

 

また、稼働が良く、売り上げの多いホールは、

回転数も安定するし、確率の収束もデータ通りに

あがり、合わせやすい。


しかし、今や稼働も売上もピーク時の半分以下で、

大半がデジタルフィーバー主流の時代。

 

明日の売上予想は、だいたい、これくらい。

明日の割数の予定は、だいたい、これくらい。

入金予定はだいたい、これくらい。

 

釘の調整や、設定調整をいくらシュミレーション通りに

厳密にやっても、やはり水商売だ。

どうなるかわからい。


まあ大体でも、どうにかしなければならない。月半ばで、

どうにもならない数字が出てしまうと、店長が経験者でも

早めに手を打たなければ、気の短いオーナーは許してくれないので、

途中で営業部が介在し、店長交代となる。

 

昔は店の1軒2軒潰さないと一人前になれない、なんて

ほざいていたけど、潰される前に交代だ。

そうやって、何人もの店長候補が消えていった。

人材育成と言いながら、会社は利益を減らしたくない。

 

「今日の割数の失敗(入金不足)は

度と帰ってこない(上下合わせて大損)」

準大手のチェーン店にいたとき、社長からよく叱責された。

 

当然、最低ラインとして、月単位で予定が立てなければ、

収支予想も立たず、商売が成り立たないのは言うまでもない。



 


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人相


店舗長を最終的に決定(任命)するのは、社長だ。

過去の経歴や自社に入社してからの勤務態度や、

営業部の評価も参考にするが、当時いた会社の社長は

「人相」で決めていた。

 

長年その会社で勤め、主任、マネージャーを数年間経験し、

次は店舗長(店長)の推薦を営業部係長、課長らから受けても、

写真を見ながら、一言。

「人相がよくない」


その会社では最終的に、入社時の履歴書写真の判断で、

昇格できなかった人材が何人かいた。

 

みな、まじめだった。真面目だから何年も同じ会社で継続して、

上を目指して頑張っていたのだ。

 

「人相」で決めるなら、最初から「言ってやれよ」。

 

誰も怖くて言えなかったけど、履歴書の写真うつりは要注意だね。




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木曜日

セット販売

 

ホールの島設備は、ホールコンピューター(ホルコン)と

ライン(玉循環)、島間玉貸し機(サンド)、両替機、

玉(コイン)計数機、POS、備品卸業者などの組み合わせで決まる。

 

ダイコク電機のホルコンには、竹屋のラインが多かった。

ダイコクのホルコンはシェアも広く、データ収集を率先して

開発していたので、遊技機のデータ情報量が大きくリードしていた。

 

竹屋は布洗浄の玉循環で比較的扱いやすく、

エース、大都はポリ洗浄の循環式だったが、

ホルコン、ラインともに自社開発だったので、

遊技機の開発も含めて島設備は両社が牽引していた。

 

特にパチスロ「吉宗」以降、大都販売は、

遊技機納品と合わせて、価格が廉価でもあり、

島設備一式、ホルコンと合わせて一気にシェアが広まった。

 

同様に2010年以降は、北電子も自社製

ホールコンピューターを、「ジャグラー」納品を

条件に抱き合わせて、シェアを広げた。

 

業界の悪習として、ヒット作が出れば、

それを釣り餌に他商品をセットに抱き合わせ販売に

かけてくる。毎回、公正取引委員会に問題提起となるが、

勧告指導などは聞かず、

「毎度お馴染みのセット販売でございます」だ。

 

メーカー、ホール、その関連団体、業界全体が、

未来を見据えたヴィジョンもない「今だけ」の姿勢は

変わらないだろうね。

所詮、許認可で許しを頂いてやる商売だ。

目立たぬように、ひっそりと稼ぐのが業界の身の丈に

合っていると、いうところだろうか。

 

大手はCMなど派手な宣伝をして、目立っているけどね。




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怪しい奴


ある地区の営業部時代。

営業所は駅に近い店舗の2階にあった。

店舗の上が、まるまるスペースなので、

10畳分ほどパーテーションで間仕切り、

残りは遊技台の倉庫として使用していた。

 

ある日、私一人で事務所にいた。扉は施錠せず、

10分ほど1Fのホールの所用を済ませて2Fに戻ると、

他の地区のK課長が営業所の大型金庫の前にいた。

 

「あれ?」「いつ?」「おはようございます」

彼は、慌てた様子で、振り返り、

「あ、お、おはようっす。」

「金庫が開いていたで」

「えっ?そんなはずは」

 

当時、そこの営業所は私の上長にO課長、

下に営業部員が1名、係長の私の3名体制だった。

営業所の大型金庫の鍵は、自分は所有しておらず、

O課長が所持管理していた。

店舗の金庫もそうだが、金庫のダイヤル部分は、

ガムテープで動かないように固定し、

開閉は鍵のみで使用していた。

 

K課長指摘の通り、確かに金庫は開いていた。

 

すぐにO課長に連絡し、確認する。

「えっ?昨夜、ちゃんと施錠した」

「部員の子と二人で確認したぞ」

 

しかし、金庫は開いている。

その後、O課長と営業部員もかけつけ、

金庫内をチェックしたが、紛失はなかった。

 

営業部の金庫には各店の金庫の

スペアキーも保管していた。

万が一、店舗で紛失、担当者不在の事案が

あれば、代用出来るようにだ。


以前から、店舗での大きな現金紛失時に、

いつも、K課長は応援、担当などで在店していた。

彼は、各所のスペアキーを持っているのではないか?

その疑いは数人だが、以前から聞いていた。

 

当地区の金庫をスペアで開け、私がすぐに戻って

きたので、差したカギを抜くのが精いっぱいで、

胡麻化したに違いない。

 

副社長、部長に毎日提出する「報告書」に

事の次第を書き、内部調査の必要性を訴えた。


K課長は上層部には、可愛がられる存在だった。

私の提起は大事にならず、すべて不問に。

私にも、K課長にもその後、上層部からも、

この案件が話題になることもなかった。

K課長から私への抗議もなかった。

 

けっこうな重大案件だが、その後、

グループ内での大きな金銭紛失はなくなった。

 

「怪しい奴だ。まちがいない」と

今でも思っている。




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火曜日

応援

 

今日は違う県の系列店へ新台調整の応援に行った。

まだ、この地区は店休が月4回あり、

前夜に入れ替え作業を終わらせ、

今日は朝から新台調整と、

明日からの全台時間打ち営業のための全台調整もあった。

 

応援は新台の調整だけで、10台ほど。

丁寧にやっても、2時間もあれば余裕だ。

ここの店長は55才で、系列店のなかでは、

ベテランだった。

 

しかし、以前から噂は聞いていたが・・・

 

いざ、調整となると、なかなか始まらない。

様子を伺っていると、手が震えている。

やはり、飲まないとダメなようだ。

 

「店長、飲みたいんやったら、構わんで」

「部長には黙っとくし」

 

当然のように内ポケットからウイスキーの小瓶を取り出し

ちびちび飲みながら、作業開始となった。

 

私のほうは、いつものように集中し、

1時間半ほどで、新台の調整は終了し、

肝心のヘソ釘の大きさを相談しようと、横のシマで

調整中のはずの店長を見ると、椅子の上で寝ている。

ゆすって起こすが起きない。

まあ、来た時から様子がおかしかったが、

昨夜からかなり飲んでいたのだろう。

 

仕方ない。

新台の命釘を板ゲージで、12.5の幅で決め、

他のコースも自分の担当店舗同様、いつものように

開店用のゲージにそろえ直し、上から他の役職者を呼んで、

店長を2階に担ぎ上げさせ、施錠させた。

 

後日、店長からの連絡もなく、彼は、

誰が応援に来たのかも、いつ、開店準備が終わった

のかも、記憶になかったようだ。

ひょうひょうとその後、数年間勤め、

ある日、2階の寮の自室で病死していたらしい。

自分の担当部下ではなかったので、

彼の普段の評価はわからないが、まあ、

そういう店長がいてもケンチャンナヨ(かまわない)か。





写真素材 food.foto

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