火曜日

時代


「店長、また男子トイレで注射器、落ちてますわ」

 

主任のT君の報告では今月度に入って3本目だ。

K市の郊外にあるこの店舗はグループ内でもトップ3に

はいる超優良店で、毎月の回収金(粗利金)も平均的な

店舗の3倍近くあるドル箱だった。

 

しかし、立地的に客筋が良くなく、いわゆる「ガラの悪い」

場所だった。近隣には有名な在所(部落)もあり、そもそも

新規開店時から地元暴力団からの圧力で、開店が1年間延び、

数年前の処女開店時には、黒塗りのベンツが駐車場の周りを囲い、

無事にオープンするような、いわくつきの店舗だった。

 

だが、想定通りにギャンブル場としては最適な立地だった。

 

夢と希望と住宅ローンに追われるような新興住宅街よりは、

ここのように古い集落があり、雑多な街並みで、これからの

展望よりも、日々の現実に追われる人々が、小銭を得ようと

少なくはない現金を放り投げてくれる。

 

オーナーが目論んだ通りの出店だった。

 

今の店長は185cm、120kgの体躯で、もとキックボウサー。

TVなどで登場してくる有名なK1ファイターのスパーリングパート

ナーの経験もあり、当社でも筆頭の武闘派店長だった。

リングから降りて以降、体重が30kg超過中だ。

 

先日、彼が事務所で仕事中、突然、目が血走った中年男が乱入

して来た。木刀を振上げ、わめいていたようだ。

突然の出来事で店長は動顛してしまい、手加減なく乱入者を殴って

失神させてしまった。まあ、正当防衛なので問題にはならなかったが、

店内外での覚せい剤の使用や売買が以前から散見され、店舗管理が

それ以降も大変だった。

駐車場の巡回中には、不審者に車で追いかけまわされて、危なかった

事案もあり、私は彼に笑いながら、逃げやすいように減量を薦めた。

 

時代は昭和後期からのバブルが弾けてからも、また平成20年の

リーマンショック不況と叫ばれようが、わが業界は不景気こそ、

人心はひと時の娯楽(賭け事)に走るとばかり、業績の乱高下は

あったが、様々な問題を孕みながら順調に営業してきた。

 

多重債務でホールのトイレで自死された方は系列店舗や近隣でも

数人いた。突然行方不明になった常連客や、明らかにギャンブル

依存症で病的な表情のおじさん、おばさんを見ても、ホール側の

業界人は無関心だった。私もそうだった。

 

その世界にいると、その中の出来事は何でも普遍化し、本質の

異常性に気付かない。明日の生活費までフィーバーにつぎ込んで

いても、借りてまでもアレジンに数万円入れても、掛かれば

元が取れる。ギャンブルは勝ったり負けたりするものだ。

自己弁護で胡麻化す。

 

昭和、平成と隆盛を誇った消費者金融。

アコム、プロミス、アイフル、SMBCモビット、レイク等々。

高金利での貸し付けや取り立てが問題となり、総量規制などで

一時撤退し、悪役に転落したはずの消費者金融が、またぞろ

マスコミでタレントを使い、新しいカードローンだと大手を

振って喧伝している。

 

資本家はいつも弱者を食い物にして増殖していく。

60を過ぎ、しがない時給950円のパートタイマーとなった

私は、今は食われる側になった。

年を経て回り道は出来ない。コツコツ余生を過ごそう。

 

反面教師の親父の背中を思い出しながら。




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木曜日

DEN


平成のなかごろ、準大手のパチンコ店を辞めた。

自主退社というよりも以前も書いたが、肩たたきがひどく

病気入院で3週間の現場離脱をきっかけに、転勤、降格、

減棒を繰り返され、会社の思惑通りに退職願を書かされた。

 

バブル崩壊前に購入した坪100万の10坪の狭小住宅の

ローンの返済、2人の娘のミッション系私立女学校の学費、

たまにやってくる親父の遊興費。

 

休んでいる猶予など無い。

次のパチンコ店での就職口を探していた。

 

その時期、親父の姉(大叔母)がS県でパチンコ店を2店舗

経営していたが、長年雇っていた店長からあることを理由に

恐喝され、店長不在のため店は危機的な状況になっていた。

 

大叔母に連絡してもらい、S県のあるホールへ伺いに行った。

大叔母は、息子が関西で数店舗のP店をやっているので、金銭的

には苦労はなかったはずなのだが、諸事情あり、自分でもホール

経営を始めたのが数年前だ。

 

周囲の業者に云われるままに遊技機の購入や、営業指南をして

もらっていたが、客数は減少し、怪しげな業者に勧められるまま、

「遠隔装置」を設置してしまった。

億単位の費用がかかったらしい。

それでも業績は向上せず、店は閑古鳥が鳴いていた。

 

また、開店時からいた店長が辞める際、遠隔の不正を警察に告ると

脅され3千万円の退職金までむしり取られていた。

 

営業に無知で人任せな経営者も多くて、騙されて大金を失った

パチンコオーナーの話も多い。

 

簡単に大金を投資して、大した人材もなくP店の経営に手を出すの

だから失敗するのは必然だが、良い人材(店長)に巡り合うことも

あり、大叔母は人を見る目が無かった。

 

「フーテンのソビン」と言われたわが父を店舗の会計係に据え、

勧められるまま違法機器である「遠隔装置」まで訳も分からずに

導入したのだから、恐れ入るくらい無知でお人よしだ。

 

「ゆうちゃんがもっと早く来てくれたら良かったのに」

 

重なる赤字で店舗の撤退はもう決めているようで、私の再就職は

ハナからなかったのだが、私自身も現状の店舗を観察しても、ここは

無理ゲーだった。

 

余生に余裕で資産もあり、無理して商売をする必要もなかったのに

魔が差したかのように、私の父も引っ張り込んで、失敗してしまった。

後に聞くと子供達との関係も良くなく、最後は寂しい余生になった。

 

ちなみに廃業した店舗の屋号は「TEN=テン」だったが、地元では

 

TEN=テンはDEN=出ん、と言われてるんよ」

「名前があかんかったんかなぁ」

 

大叔母は少し寂しげに笑っていた。




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火曜日

なあなあ


10年ぶりの寒波が来ると昨日からテレビで騒いでいる。

冬季、寒くなる時期は自宅の外の水道管には凍結防止のため

梱包用の布を巻いている。

自家用車の冬用タイヤは昨年12月に交換済みだ。

 

ここに引越ししてすぐ大雪が降った。

以降、町が山の谷間に位置することもあり、毎年のように

何日間は結構な雪が降っていたが、ここ10年は車の交換

タイヤが無駄足になっていた。実際、年に1~2度くらいの

軽い降雪なら、もう冬タイヤは必要ないだろうと思いつつ、

毎年末に交換してしまう。


もっと田舎に住んでいた時は場所にもよるが頻繁に

大雪が降っていた。

アイスバーンにもなれば、スタッドレスタイヤでも滑り、

坂道では、ちょっとした衝突は日常茶飯事だ。

 

地元では車のバンパーはぶつけても良いものとして

認識している。 

「ごめん」

軽い接触なら、これで済んだ。

 

少しでも傷が付くのが嫌なら、冬季は車に乗るな。

路上駐車も同様・・・だったのだけど、

だんだんと皆の意識も変わってしまい、ちょっとした

接触でも、事故証明等で110番、となった。

 

昔は「なあなあ」で済ませていた。

世の中は世知辛くもなり、互いに妥協し合うことも

なくなった。

「なあなあ」で適当に済ます前提では、互いの信頼も

あったはずだが。

 

だが組織になると、「なあなあ」で済ましてしまうと、

コンプライアンスが守れず、談合や悪しき習慣となり

ルールがなくなる。

 

「なあなあ」はあまり良い意味では使われないね。

 

「なあなあ・・・いいだろう?」

と高を括っていると、肘鉄をくらう。

男女の仲の「なあなあ」も、むずかしいね。




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月曜日

生きがい


25才から60才ちかくまで続けてきた仕事を辞めてから

3年目になる。前職はブラックだったが、私なりにこだわりや

誇りをもって臨んできた仕事だった。

その成果として肩書や報酬もそこそこ頂いてきた。

 

今は事務員補佐のパートタイマーで、職場は、県内の

大学・企業・自治体などからなる、ある一般社団法人の職員

2名と共同使用している施設の管理が仕事だ。

 

私の属する組織からは私一人ということになる。

 

10年前に大きな心臓手術をしたので、私は1種1級の

手帳を持っている。コロナ禍での2年間の就職活動を通じて、

思いのほか60才の一般の就職が厳しく、最終的に

「障がい者枠」での採用となった。

 

月間120時間の勤務で、施設利用の予約受付、貸出機器の

設置、利用後の室内清掃など、それ以外は机に座って、

終了時間まで、ほとんどかかってこない電話の受付だ。

 

ここ2年間はコロナの影響で、2003年の開業以来、最低の

利用人数となっているようだ。

 

最初の1か月は覚えることもあり、作業の確認などに緊張感も

あったが、仕事内容を一通り把握すると、「留守番」であることが

明らかで、面接の段階ではそれらしい事も言われていた記憶も。

 

責任を伴うような仕事内容は与えられず、ただ、時間内を無難に

過ごせばよい。障がい者雇用枠を守らなければいけないので作った

職域のようだ。前任者もそうだったようだ。


上長の関心も薄く、入社以降10か月で3回しか会っていない。

ほったらかしだ。

本部とのやり取りはメールのみ。電話もほとんど掛かってこない。

業務日誌は毎日つけているが、提出は月初めに1回。

日報ではないね。月報だ。

 

給与を頂く限り、毎日できること、準備することを自分なりに

工夫してきたが、これも障がい者差別だね。個々の能力も見ないで

法的に問題がないように採用枠を確保し処理するだけの職場だ。

 

組織運営上、あっても無くても関係ない(私自身はそう思わないが)

という組織の態度があからさまだ。

 

仕事の「やりがい」が、自分の「生きがい」だった。

 

この「やりがい」のない仕事をいつまで続けようか。

 

「やりがい」のない仕事に意味を見つけて「やりがい」の

ある仕事に替える。

前職の管理者だった時に社内で、講習で、常日頃言っていた。

それが今、試されているのか。

 

今までもそうだったが、自分の評価は、自分でしてきた。

自身に恥ずかしくないよう、契約期間は全うしよう。




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金曜日

「生きる」


小学校1年生から中学3年生まで、9年間同じクラスの

子がいた。当時は小学生で、1クラス40人で6クラス。

年に回のクラス替えだった)

 

中学校は、1クラス40人で14クラスあり、年ごとに

クラス替えがあった。

 

年間も、同じ子と同じクラスが続くことは他になく、

かなりの奇遇、巡り合わせだろうと思う。

 

お互い子供から少年・少女期の成長を横で見てきたのだから、

ドラマなら幼馴染としての運命が展開されていくのだろうが、

その後の再会は45年後の還暦の同窓会となった。

 

お互いに、いい年のおじさん、おばさんになった。

手を取り合って懐かしく再会したが、私も彼女も人見知りを

するような大人しい子供だったと思う。

 

同窓生の中には同級生同士で結婚する友人もいて、人の

つながりはどこでどう転んでいくのか分からない。

 

いまだに幼少期から同じところに住み、職場も地元、の

同窓生もいる。面白くないとボヤいていた。

連絡もつかず所在の分からない人もいる。

早々にあの世に旅立った人もいて、人生は百通りだね。

 

昔観た黒澤明の「生きる」の志村喬の演技は虚無的で、

淡々としていたが、死が間近に来て初めて、自分の最期の

役割を自認していく姿は、当時の日本人の気質なのだろうが

生真面目で重たい。

 

もっとファンキーに生きて死んでいこうぜ。ブラザー。

ってなことで、「生きる」って難しく考えても、なるように

しかならない。

 

身内には迷惑を掛けながらも自由気ままに生きている

「フーテンの寅さん」を観ると、私の死んだ親父を思い出し

懐かしい。自分の人生、好きなように生きていく。

 

周りにすれば困った人だ。

でも、それなりに愛嬌もあり、死んだ後に困らされた人の

心に痕を残す。

 

まあ、仕方のない親父だったよ。ってことで。

 

俺には出来ない人生だけどね。



 


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木曜日

差別とやさしさ


父方の祖父母の記憶は、はっきりと残っている。

祖母には私が30歳の時、妻を伴って挨拶にも

行った。いつものように腹巻に全財産を入れ、

私の手を握り、元気だった。

 

心根の優しい人で、近所に競艇場があったため、

自宅の横の公園には、よく「すっからかん」に

なった、だらしのない人たちが野宿するものだから、

布団を貸したり食事を与えたりする人だった。

 

祖父はそれ以前に早く他界していたが、

後年は二人とも、もともと日本語が堪能では

なかったので、身内での会話はすべて韓国語だった。

 

日本語と韓国語は文法が同じで、似た言葉も多く、

父の世代は、自然とチャンポンして話していた。

 

一度、大叔父が脳梗塞で倒れた時、本人は子供達に

日本語で会話しているつもりだったが、発する言語は

韓国語だったので、周りと意思疎通が出来ずに困ったと、

回復後に後日談として聞いた。

 

上の世代は皆バイリンガルなので、自身の二重性に悩んだ

様に思う。親が生まれた国と、自身が生まれ育った国。

35年間の植民地を経ての戦後の開放は、同化された

多くの在日韓国人の心情に複雑な要素が絡み、差別や

貧困も相まって、私よりも一つ上の世代は気難しい人が

多かったように思う。

 

在日韓国人の親族の中には、一人二人は暴力団関係者が

いる。と言われたこともあり、差別・貧困と繋がって

いるのだろう。

のちにパチンコ業界に入った時に、もと「関係者」から

聞く話では、「盃を交わす中では差別はない」

「ヤクザの世界には同和差別や、朝鮮人差別はなかった」

神戸番町出身の店長から聞いたことがある。

(愛すべき人々・昭和編)

 

幸い私の親族には暴力団関係者はいなかった。

 

大阪の大正区には沖縄出身者も多く、当時は彼らも

在日朝鮮人、部落出身者と同様に差別で苦しんだ。

パチンコ業界には昔から、沖縄出身者も多くて、大阪の

ホールでは島中の補給係は高い比率で多くいたようだ。

 

日本人はやさしく、あからさまな差別はない、という

人もいるが、差別をしたほうは、あまり自覚はないが、

されたほうは忘れない。

 

令和の今になっても、YouTubeなどで見るヘイト

スピーチはひどいね。

平成以降、モラルがなくなったようだ。

今の政治の姿勢が、現状に反映されているのを

多くの知識人はわかっているが、修正できない。

 

「戦前の始まり」とタモリは云ったが、

「始まりが三日坊主」で終わりますように。



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人の世


私の母は神戸で生まれ育った。1945年の神戸大空襲は

11才の時で、その恐ろしさをはっきりと記憶していた。


母方の祖父は私が小学低学年時に早く他界し、祖母も

その後数年で亡くなった。背は小さかったが、優しくて

お洒落な人だった。

 

1995年(平成7年)の阪神淡路大震災は祖父母が

暮らした神戸の下町をすべて灰と化し、当時の面影は

全く残っていない。

写真もすべて焼失したので記憶の中だけだ。

 

あの時、妻は次女を3日前に出産して入院中のため、

私の母が、上の子の世話のため私の家に泊まり込んでいた。

 

朝5時46分。家が大きく揺れ、いきなり起こされた。

隣の部屋の母も飛び起きた。

その後、テレビ中継で空から、神戸の様子が映し出され、

あちらこちらから煙が立ち上がり燃えだしている。

 

「ああ、空襲の時と一緒や」 「また神戸が燃える」

 

二人で固唾をのんでテレビをみつめた。

 

固唾をのんでテレビをみつめるのは、これ以降も。

 

2001年9月11日の世界貿易センターに飛行機が・・・

会社で、社員全員で、まるで作りごとの世界を見る様に

固まっていた。

 

2011年3月11日 東日本大震災・大津波の様子を

何度も繰り返しテレビで見せつけられた。

 

昭和20年の敗戦以降、日本には戦争はなかったけれど、

何度も大きな災害に遭い、世界では終わらない戦争・紛争で

多くの人命が失われた。

 

人の命は地球より重かったはずが、人の世の中では

何とも軽く、はかなくなってしまったのか。

 

「ブッダ」「キリスト」「マホメット」は今の世を

どう見るのだろう。




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火曜日

墓誌


K市の霊園墓地にある大叔父が建てた

祖父の墓の横に石板に刻まれた墓誌がある。

 

「本籍地 慶尚南道〇〇市〇〇洞○○番地

父 在敦 母 和順とも韓国の農村に生まれ

幼少の頃 住み慣れた故国 韓国を離れ

玄界灘を越え ここ日本に移住する事に

なり あらゆる仕事をして 私ども七人の

子供を大学迄 出してもらった

全くの無学の父ではあったが 法律の

いらない人で 皆から尊敬され

一生涯 働き通した

母は父を支え私達子供を守ってくれた

終生父母の恩を忘れず ここに感謝を

こめて 墓誌に刻む」

 

刻まれている通り、人が嫌がる仕事でも何でも

厭わずにやったらしい。

そのため、周りからも信頼され、何度も人に騙された

事もあったらしいが、日本人(社会)からも信用されて

文字も書けないのに会社を発展させた。

5人の息子は全員、大学まで進学した。

 

今は私の世代から上の男性親族は全員亡くなった。

 

私は学歴もなく、特別のスキルもない凡庸な男だが

人と人との緩衝役になって、嫌がる仕事でもなんでも

やって来た自負はある。祖父の血統だろう。

 

祖父のように自然と周りに集落ができるような

人望は、今のところ親族にはいない。

 

後々の子孫に期待しよう。




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月曜日

リコール


昨年末、ブリジストンから「シルヴァF8F」という

折り畳み自転車の不良部品による自転車本体の回収と

お詫びのお知らせが届いた。

 

4年ほど前に「ミニベロ」というカテゴリーの小型の折り

畳み自転車にハマっていた時に購入した台だ。

 

以前にも書いたが、同時期にダホン社というアメリカの

自転車メーカーの「ミニベロ」を2台購入したのだが、

いちびって国内メーカーの「ミニベロ」も、と購入して

しまった。価格は海外製品の半額ほどで、重量は重いが、

思いのほか乗り易く、フレームの強度もあり、気に入った。

 

20代のころに、同社の27インチの折り畳み自転車で

グランテックという車体を半分に畳める自転車を持って

いたこともあり、同社の印象は良かった。

 

F8Fを車のトランクに積み、福井県の三方五湖周辺近くの

道の駅に車を止め、そこから周遊したこともある。

中学生の時に、昔の段変速の自転車で回り、30代の頃

には、車で湖を見渡せるレインボーラインという有料の

道路を走った思い出の場所だ。

 

道はかなり整備されていて、五つの湖のほとりを自転車専用

道路で周回できる。起伏も少なく、20インチのタイヤでも

楽に走れ、気持ちが良い。湖面は静かで、リズムよく走って

いると昔の甘い記憶が蘇る。

 

それほど回数は乗っていないが、どの自転車もいざ手放すと

なると、乗車感覚が思い出されるのもあり、少し寂しいが、

最近2年間ほど、長女宅に預けている間に雨ざらしで、一部

錆があり、タイヤも摩耗している。

 

返却用のダンボールは届いている。メーカーの指定日に返送

するだけだ。4年も前に購入し、使用頻度も高いバイクが

リコールで弁償して頂けるのだから、得した気分だが、

乗っていた長女には新しい自転車の購入費用を補助したので

お金は残らない。

 

もうこのタイプの自転車は買うことはないだろう。

電動アシスト自転車に乗ってしまったので、

小径車といえども、もう完全自力では、こげなく

なってしまった。

一度、楽を覚えると、もう戻れない。駄目だねぇ。




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オジサン(大人)


子どもの頃、近所の銭湯で水を投げて

遊んでいると、知らないオジサンから怒られた。

「他人に迷惑がかかるから、だめだよ」

 

中学生の時も同様、電車内で友人たちとふざけ

合っていると、マナーが悪いと注意された。

 

路上で喫煙していた高校時代には、

「未成年が偉そうに公然と喫煙するな」

「便所で隠れて喫いな」

 

当時は柔道をやっていたこともあり、私は体格も良く、

角刈りで、見た目の容貌も良くなかったと思うが、

作業服のオジサンに、はっきりとした口調で注意された。

 

兄が経営する喫茶店で仕事し出した20歳前後でも、

当時ヘルプに来ていたバーテンダーのオジサンから、

「君は経営者の身内だが、オーダーの注文口調や、客対応が

悪い。注意しなさい」と、お叱りを頂いたりもした。

 

昭和の時代は、オジサン(大人)に威厳が残っていたのだろう。

子どもたちも、そんなオジサン(大人)たちには一線を引き

甘んじて彼らの注意を受け入れていたように思う。

今から思うとすべて、ありがたい言葉だ。

 

ネットで調べると、

「おやじ狩り」という流行語は、1996年6月に、

千葉県船橋市で発生した少年(当時高校生)4人を含む

7人の犯人による強盗致傷事件を起点として広がった。

 

平成8年ごろからか。

子どもたちの反逆が始まった。

下手に路上で、電車内で、人に注意できない。

反論されるならまだしも、刃物を持ち歩く者には

ものは言えない。

 

オジサンたちが子供たちにビビってしまった。

中高校生は、体格は大人と変わらない。

刺し違える覚悟がないと、注意できない時代に

なってしまった。

 

総理大臣が国会で公然と嘘をつき、事実を改ざんし、

物事を平然と胡麻化していく。この事実は重い。

全てが繋がっていくのだ。

「おかしいこと」は「おかしい」と云えない時代に

なってしまった。

 

世の中を渡るには「覚悟」が必要だ。

それだけは年を経ても忘れずに生きていこうと思う。 




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金曜日

成人式


テレビのニュースで成人式の様子を映していた。

会場周辺で酒を持込み、待機する警察官と揉めている。

若者の傍若無人な行いを、相変わらず顔にモザイクを

かけて映していた。

信じられない。

若者が手を上げて殴り合っている映像が。

制止する警察官の胸ぐらを掴んでいる。

「暴行」であり、「公務執行妨害」だ。

 

法治国家であれば、子供であれ、大人であれ、

他人に手を出せば、暴行罪だ。

衆人環視の下で、目の前で、暴力をふるっている

のに警察官は取り押さえず、手錠もかけない。

「まあまあ」

「やめろ」

犯罪を犯しても咎められなければ、反省はない。

 

商売がら、何度も不良客とも揉めたが、お互いに

少しでも手を出して相手の体にあたれば、手を出した

方が負けだ。胸ぐらなんぞでも掴んでくれば、許さない。

警察を呼び、カメラ画像を提出し、暴行罪で訴える。

 

法律の適用が変わったのだろうか。

成人になったばかりの成年には、少々の暴力は

容認するのだろうか。

 

世の中の常識。大人の喧嘩。を、

こういう時は国家権力を使ってでも、子供には

教えなければならない。

 

大人を、世の中を、舐めさせたら駄目だ。




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つながり


年を取って、会社勤めもなくなり、行動範囲がだんだんと

狭くなってくると、他人とのかかわりや、距離が開いてくる。

 

もともと夫婦そろって人づきあいがあまりなく、ましてや

私のほうは、金銭が絡む業種のため、意図的に他人とは

警戒感を持って距離を取っていた時期も多く、生来の性格

もあって個人的に仲の良い友人も出来なかった。

 

今では家族だけが唯一の人との「つながり」だ。

 

困るのは、他人との会話が減ったことで、従来の口下手が

さらに滑舌が悪くなり、会話の転結がまとまらず、同じ話を

繰り返すような自覚がある。

 

妻のほうは朝から晩まで独り言で、まるで誰かと会話している

ように喋っている。彼女の韓国に住む母親も同様で、以前何度か

訪問した時には、方言の強い言葉で(私には理解できず)、

独白劇を繰り返していた。

ネットをみると統合失調症の症状でもあるが、遺伝的な

(習慣的な)事も大きいのだろう。

 

「そんなに喋っても疲れないの?」

「ぜんぜん」

 

私も真似て喋ってみるが、独りで何を話せばいいのか、難しい。

 

訓練することで、饒舌にもなるだろうが、

「口は禍の元」、「口から出まかせ」、「口八丁手八丁」と口から

発するトラブルも含め、SNSなどの映像や、ちょっとした小文が

大きな波紋を起こす場合もある。

 

「男は黙ってサッポロビール」

昭和40年代にコマーシャルで流行ったが、寡黙で、無駄口を

きかない男は、格好は良いが、扱いやすく、利用されやすい。

 

昭和・平成のブラック企業で長年過ごしてきた身としては、

「黙ってサッポロビール」を飲まされ続けて人生を費やして

来たようだ。

 

今は、「男は黙って発泡酒」。  せつないねぇ。




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木曜日

終わりの始まり


懇意にしていた遊技機納品業者の社長との話。

昨年から導入が始まったスマートスロットに関して

予想以上に射幸性が高いらしい。

従来使用していたコインを使用せず、電子情報でメダルを

管理する新しいシステムでは、初期の導入コストの負担が

大きく、また、6号機以降の遊技機の出玉規制のために

買い控えが予想されていたのを受け、こちらも予想通り

最初から射幸性を高めた遊技機を、まさしく積極的に

検定通過させて市場への導入を促進する狙いのようだ。

 

三共「ヴァルヴレイヴ」、大都「サラリーマン鏡」、山佐

「リノヘブン」、オリンピア「バキ」など。(すべて略称)

 

カテゴリは6.5号機として、メーカーは「抜け道」を作り、

行政が看過する構造は、以前も書いたがCR機導入時と

同じ構造だ。

 

過去に撤去された4号機並みの射幸性があり、一気に

万枚(20万円)ちかくの出玉性能がある様だ。

 

同じことの繰り返し。


社長の話では、大手の導入が中心で、中小の店舗は、

設置を希望しても、設備も抱き合わせなど、メーカーの

言い値で、数も入らずに泣き寝入り。

大半のホールはもう追いていけないだろう、

とのこと。

今の時代に、平成の初期のころのような、

ホールや遊技客に負担をかけるばかりでは、

おそらく業界は「終わる」だろう。

 

しばらくは高射幸性で、一部のヘビーユーザーが

沸いても、これが消滅の最後の瞬間になるやも。

 

他の業界でもいえるけど、一部の特権業者だけ

儲かる、その場しのぎの構造では、健全な市場経済は

もう、ないってことだね。




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もったいない


このところの物価高は深刻だ。

昨年度から段階的にモノの値段が何度も

上がってきている。

今は、妻の体調が芳しくないため、

普段の買い物は私がやっている。

スーパーでのレジの支払い時に、5千円

前後の今までの算用感覚が千円ちかくになり、

びっくりする。毎月の光熱費もバカにならない。

ユニクロなどの衣服も上がってきているようだ。

 

インフレなのに給与は上がらない。

パートタイマーだが、時間給が上がるような話は全くない。

これが「スタグフレーション」と言われるらしいが、

世の中は「仕方がない」の風潮だ。

時の政権の無策にもマスコミは核心には触れず、

ウクライナ戦争、コロナ禍での世界的な影響で、

「仕方がない」。

 

昭和の時代には、デモやストライキがあった。

市井の人々の不平不満は声を出して主張していたし、

それを拾う団体・野党もあったのに、いまは広がりを

感じないし、マスコミは取り上げない。

 

平成以降から何かが変わったようだ。

 

戦後70数年のアメリカの民主主義が

占領下の日本で「服従」する精神を結実させたのか。

 

同胞が目の前で苦しんでいても、宗主国には逆らえない。

戦後の原点では、

天皇陛下万歳で若者が死んでいっても、

長崎、広島へ無差別虐殺の原爆投下にも、

天皇制やアメリカの非人道行為には抗議・変革・清算が

出来なかった。

国内の130か所の米軍基地が存在し続ける間は、

日本はまだ、独立していないのだね。

 

こんなに自然が豊かで、穏やかな気候、思いやりのある

国民性で、高い経済力があるのに、なんでもっと、皆が

幸せになれないのか。

 

もったいない、と本当に思う。




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火曜日

帰化


2013年(平成25年)に日本国籍に帰化をした。

52才の決意だった。

私の父母は在日二世で、父は両親とは普通に韓国語で

会話をしていたバイリンガルだが、母は、母国語は聞く

だけで、話す事が出来なかった。

私と兄妹は日本の学校で教育を受け、家庭内でも

韓国語に触れることなく成人した。

 

「ふるさと」は物心がつく頃から自然と培われる

ものなのだろう。

 

そんな環境で育った私のアイデンティティーの片隅には

常持している外人登録証があったのみで、自ら民族意識を

醸成する機会もなく環境でもなかった。

 

自身のルーツを探るべく足掻いた時期もあったが、

30歳の時、韓国人の妻と出会い、自身の韓国化を

試みたが、お互い、同胞との出会いというよりは、改めて

違う国、価値観の違う国際結婚だったことを再認識した。

 

長女の就職も近くなり、以前から子供たちは帰化を

希望していた。祖父母が日本に定住してから90年。

私の子どもたちで在日四世になる。

妻は生粋の韓国人だが、自身が日本語を覚えるのが

精一杯で、日本語で会話し、生活していた。

子供たちは私の世代以上に「日本人」として、

ルーツは、母や曾祖父母の生まれた韓国だが、

「ふるさと」を愛する日本人として、

「国籍変更」を選択した。

 

20歳から迷い、30年間踏み出せなかった

「国籍変更」を私も決意した。

 

国籍の取得・変更は世界では二重国籍も当たり前だし、

便宜上の変更も多いようだが、先の大戦時の日本の

大東亜共栄圏構想の悪夢が、日本に住むアジア諸国の外国人

には「日本化」の心の障害になっているのだね。

 

まだ戦後80年も経っていないのに、最近の急激な軍備拡大案や

あからさまな歴史改竄は、また、日本が同じ道をたどるようで

不安だが、今は私には毎回の「一票を投じる」権利もある。

 

「ふるさと」を破壊させないように行動しなければいけないね。






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