木曜日

差別とやさしさ


父方の祖父母の記憶は、はっきりと残っている。

祖母には私が30歳の時、妻を伴って挨拶にも

行った。いつものように腹巻に全財産を入れ、

私の手を握り、元気だった。

 

心根の優しい人で、近所に競艇場があったため、

自宅の横の公園には、よく「すっからかん」に

なった、だらしのない人たちが野宿するものだから、

布団を貸したり食事を与えたりする人だった。

 

祖父はそれ以前に早く他界していたが、

後年は二人とも、もともと日本語が堪能では

なかったので、身内での会話はすべて韓国語だった。

 

日本語と韓国語は文法が同じで、似た言葉も多く、

父の世代は、自然とチャンポンして話していた。

 

一度、大叔父が脳梗塞で倒れた時、本人は子供達に

日本語で会話しているつもりだったが、発する言語は

韓国語だったので、周りと意思疎通が出来ずに困ったと、

回復後に後日談として聞いた。

 

上の世代は皆バイリンガルなので、自身の二重性に悩んだ

様に思う。親が生まれた国と、自身が生まれ育った国。

35年間の植民地を経ての戦後の開放は、同化された

多くの在日韓国人の心情に複雑な要素が絡み、差別や

貧困も相まって、私よりも一つ上の世代は気難しい人が

多かったように思う。

 

在日韓国人の親族の中には、一人二人は暴力団関係者が

いる。と言われたこともあり、差別・貧困と繋がって

いるのだろう。

のちにパチンコ業界に入った時に、もと「関係者」から

聞く話では、「盃を交わす中では差別はない」

「ヤクザの世界には同和差別や、朝鮮人差別はなかった」

神戸番町出身の店長から聞いたことがある。

(愛すべき人々・昭和編)

 

幸い私の親族には暴力団関係者はいなかった。

 

大阪の大正区には沖縄出身者も多く、当時は彼らも

在日朝鮮人、部落出身者と同様に差別で苦しんだ。

パチンコ業界には昔から、沖縄出身者も多くて、大阪の

ホールでは島中の補給係は高い比率で多くいたようだ。

 

日本人はやさしく、あからさまな差別はない、という

人もいるが、差別をしたほうは、あまり自覚はないが、

されたほうは忘れない。

 

令和の今になっても、YouTubeなどで見るヘイト

スピーチはひどいね。

平成以降、モラルがなくなったようだ。

今の政治の姿勢が、現状に反映されているのを

多くの知識人はわかっているが、修正できない。

 

「戦前の始まり」とタモリは云ったが、

「始まりが三日坊主」で終わりますように。



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