月曜日

ベトナム人

 

娘婿の母、弟が昨日、ベトナムから来日した。

 

娘婿は日本に来てから14年ほど経つ。

昨年、やっと永住権が取れ、銀行でローンを組み、住宅を

購入した。娘とは大学時代からの交際で卒業後、結婚した。

 

コロナ騒動の前に、ベトナムから両親が挨拶に来られた。

その後、結婚式はベトナム・ホーチミンだったので、私も渡越し、

今回を含めると回目の対面だ。

その間、初孫である女の子が生まれ、今回が初対面だ。

 

娘婿と車で迎えに。  

久しぶりの関空だ。

 

夜中の時にホーチミンから。

時30分、大阪に。

出発時の気温は29℃。到着時は4℃。

いきなり冷蔵庫に入るような。

 

私は、ベトナム語は、挨拶以外は知らないので、車の中では

会話の中に出てくる人物名しか、聞き取れず、彼らの早口の

ベトナム語に目が回りそうだった。

 

3か月ほど前には、19才の従弟も留学し、大阪で寮生活だ。

だが、円安、低賃金の日本は、遊びに来るには良い国だが、

仕事で居つくには、今は魅力のない国だろう。

 

この30年は不景気の中で低迷してきたのは現実だ。

だが、まだ東南アジアでは、「日本=豊か=先進国」という幻想も

少し残っているようだ。

 

世界はどうなるかわからない。

平均年齢が50才になろうとしている国と、30才の国。

未来への志向、思考、指向は大きく違うだろう。

 

生きている限り、未来は拓けて、夢があって、楽しいもので

なきゃいけない。活力にあふれ、少し混沌とした若い国はいい。

ベトナムの未来は明るい、と思う。



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古傷

 

冬の季節になると、右の人差し指の第二関節当りがうずく。


40年前に喫茶店のバーテンダーをしている時に、タンブラーを

洗っている際にガラスが割れ、スポンジを持つ右手指をすぱっと

切ってしまった。すぐに切り傷を何針か縫ってもらったが、人手不足で

店は忙しいので、翌日から指サックをはめ、通常通りに勤務していた。

今でもうっすらと傷が透けるように見え、寒い季節になると指がうずく。

 

事故等で失った手足が、あるかのように感じる「幻肢痛」も不思議な感覚

だろうが、40年も前の小さなキズが今も痛く感じるなんてのも変だが。

 

10年前の心臓手術では、胸を正中切開で縦に胸骨から筋肉も切断したの

だから、小さな切り傷以上に長く痛みを感じるのかと思ったが、胸の

20センチ近い傷は冬の寒さにも動じない。

 

切った瞬間の痛みは麻酔中で、感覚がないのだから、記憶にも残らない。

なので案外手術痕は大きく残ってはいるが、切った痛みは残っていない。

 

心体のキズは、

大きな出来事よりも、ほんのちょっとした出来事や思い出のほうが

案外こころに引っかかっていて、あの時の一言や、あの時の瞬間が、

ふと蘇って、いまも胸に蟠(わだかま)っているのがあるよね。

 

ひとには話したくない。死ぬまで内緒。

 

ひとはみんな闇があるんだよね。生きていれば。




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木曜日

あなけん

 

俳優になった高校の同級生が年に一度、自身の出演する舞台の

案内をくれ、毎回、4~5人の同窓生を誘い、観劇している。

今回も早速、年明けに予約席を取っていただいた。

 

私はテレビや映画は見ないことはないが、彼の存在は知らなかった。

以前の会社では、若い社員に聞くと全員、よく知っていて、ドラマや

映画では、いぶし銀の脇役俳優として人気がある様だ。

 

高校時代、彼は野球部だったが、柔道の経験もあり、私も有段者

だったので、体育の授業(柔道)では未経験者の友人たちを

転がしては、いい気になっていたが、彼は謙虚で、授業中も

「いちびらず」に真面目だった。

不器用そうな男だったが、芯が強く、周辺の雑音に惑わされない

意志の強さがあったのだろう。私のような悪い仲間とは距離を

置いていたように思う。

 

ここ年来の新型コロナは、どんな職種、業界にも影響があったが

彼は演劇界では確固たる存在感があるようだ。

年明けの舞台は彼を観るのも楽しみだが、数年ぶりに会う同窓生も

いて、こちらも互いを確認し合えるのが楽しみだ。

 

年に一度でも、こういった形で同窓生たちを結んでくれる

あなけんの存在はありがたいね。




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火曜日

年末年始


もう2022年もあとわずか。師走だ。

今年もあっという間に過ぎて行き、年を重ねるごとに

時間の経過が早く感じるね。

 

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」

 

自宅の近所に茶臼山公園(古墳)がある。

心臓手術のあと、毎日この公園をリハビリで散歩をした。

全国には「茶臼山」はいっぱいあり、紛らわしいので、

ここは「膳所茶臼山古墳」と呼ぶらしい。

ここの一画に「芭蕉会館」もあり、記念碑も建てられている。

 

ここに移住して18年たつ。

高速の出入り口も近く、車の便が一番良い立地だったが、

仕事で車に乗らない今は、徒歩では駅・スーパーまで遠く、

移動は自家用車がなければ不便だ。

 

何でも仕事優先、自分優先で物事を決めていた。

妻は駅近くか、商店が近い場所の移住が希望だったが、

私が仕事上の都合で勝手に決めてしまった。

子どもたちが早々に結婚し独立したので、今は、

駅から離れた一軒家は少し持て余す。

 

これからの20年。どうするか。

妻は車どころか自転車にも乗れない。

 

私に万が一が、あった時、妻は困るだろう。

過去に大きな手術を二度した体では、万に一つ

どころか、千か百に一つかもしれない。

 

年を取っても悩み事は減らないね。




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月曜日

世襲


パチンコ店での跡取りは会社にもよるが、

創業者から数えて、四代目も出てくる今頃かな。

 

私が仕えたのは大概、初代・二代目で、三代目が入社して

来る頃から、経営者の体質がおかしくなってきた。

 

もとより創業者は総じて、金銭管理を含めて

店舗の管理には厳しく、妥協を許してくれなかった。

人生をかけて、立ちあげた商売だ。

毎日が真剣に営業に向き合い、将来の夢や希望も込めつつ

叱咤激励され、社長の顔色をうかがいながら仕事をしていた。

 

二代目くらいから、世代も近くなり、経営者との距離も近づき、

雇用される立場としては、労基も順守されつつだが、まだまだ

先代の影響力が強く、経営者内での世代交代への軋轢が、社員にも

影響(内部のゴタゴタというやつだね)し、兄弟間の確執などにも

まともに巻き込まれた。

 

どの時代も、跡目争いは常だろうが、

「わからぬ様、勝手にやってくれよ」だ。

 

三代目にもなると過去には三例ほどしか経験はないが、

全員、ほぼ 「性格が悪かった」。


二代目はまだ、初代の親の苦労は見ているが、

三代目からはダメだ。

皆さん、一夜成金の成れの果てで、みな同様に

甘やかせ、贅沢に育てているので、そんな環境で

育った子どもたちが、入社後、すぐに役員待遇と

なれば、普通に「感覚」が違う。

 

最初から「パチンコ」はイメージが悪い。

と、いうので継ぐのは嫌だが、会社では名前だけの

役員で、報酬をいただきながら、悠々自適に遊び

惚けているのも多くみてきた。

 

中には、厳しく育てられて、家業を引き継いで

いる後継者もいるだろうが、「パチンコ業界」では

稀有だろうと感じる。

 

しかし、世の中。政治家、財界、スポーツ界も含めて

世襲が当たり前になってきているが、子は親を選べない

ので、本当は健全な「社会」が子供たちを育てなければ

いけないのだろうね。




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土曜日

いとこ


以前「カブトムシ」のタイトルで書いたが、

私の母には年の離れた弟が二人いた。

上の弟(長男)は若い時から病弱で、一時期、結核の

治療のため田舎で療養していた。(カブトムシ)

 

彼の定職は何だったのか、私も幼かったので

はっきりとした記憶はないが、ある時期、クラブ

歌手でステージに立っていた、というのは記憶に

ある。確かに正月で集う場所で歌を聞いたことが

あった。私の母も歌は得意だった。

音楽に素養があったのだろう。

 

母の下の弟(次男)は私とは12歳差。長男はそれ

以上だが、子供ころは叔父とはいえ、ともに若く、

○○ちゃんと名前を呼んでいた。

 

その後、長男は若くして他界し、もともと交流も

少なかったため、彼の子供たち(いとこ)には

会った記憶もなく、存在も知らなかった。

 

ある日、私の兄から年の離れた、いとこの存在を

聞いた。プロのサックス奏者になっているようだ。

YouTubeでも活躍していた。

顔は○○ちゃんそっくりだ。

音楽の素質は親から受け継いだのか。

 

彼は私のことを知らない。

会って伝えるべきか。どう話せばいいのか。

迷っている。




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友人たち②


高校時代、私を含めてまわりの友人たちに

一番影響を与えたのは友人のG君だ。

高校時代の彼は才気・才覚にあふれ、

学内では目立つ存在だった。

私を含め友人たちは17歳の時に彼に

良きも悪きも影響された。

 

彼とは高2の1年間だけ同じクラスだったのに

自主映画を8ミリで撮った思い出や、彼に誘われて

美術部に入ったこと、先に紹介したS君や彼の家で

頻繁に徹夜し、飲酒、喫煙に耽ったことなど、この

時の悪習慣が後の人生にも影響してしまった。


60年、70年は安保闘争があったが、

80年の僕らの時代は、自民党一党独裁政権が

基盤を固めつつ、社会への不満は政治に向かう

のではなく、校内・家庭内暴力など内向きな

身近な局面に向けられていた。

 

多感な時期での「政」と「性」への関心と興味は

多分に17才の少年には「性」に傾き、特に彼は

「性」への欲望で、いつもマグマが爆発しそうだった。

 

独身の教師の部屋へ数人の友人たちと

遊びに行った。

みなで興味津々に性に関する話題になる。

彼は我慢できずにその部屋の

押し入れに入り、自ら慰めていた。

担任教師もさすがに呆れていた。

 

二人で彼の部屋で酒を飲んでいると、

「ストリーキングをする」

といって、突然全裸になり、深夜明け方の

阪〇武庫〇〇駅から彼の家まで走り回った

こともあった。

抑圧されていた気持ちが解放され、

気持ちよさそうだった。

 

あれから40年!(綾小路きみまろ風に)

めまい・貧血・不整脈。

頭痛・腰痛・関節痛。

老眼・物忘れに・娘が嫌がる加齢臭。

顔に刻まれた、しわとしみ。

薄れた感受性と頑迷な思考。

それでもまだまだ死ぬわけにはいかない。

友たちよ。いつでも、どこかで、ひょっこりと

会って、話して、飲んで、楽しもう。




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友人たち①


高校二年の夏。友人の家でサントリーレッドをストレートで

いい気になって飲んでしまい、二人ともかなり酔ってしまった。

友のS君は当時から今に至ってかなり無鉄砲な男で、酔った

勢いで、自宅近くの公園の周辺に止めている自動車の上に

よじ登り、車の屋根から屋根を凹ませながら飛び回っていた。

「これはやばい」

見つかれば大変な弁償になるや、と、私は彼をなだめ、家へ

連れ帰る途中、警ら中の巡査に補導されてしまった。

 

未成年の喫煙・飲酒で交番所で調書を取られ、すっかり

酔いが醒めてしまったが、ボンネットに飛び乗った破壊行為は

後々も問題とはならず幸いだった。

 

この一件は学校へ連絡され、体育教師からは手厳しい注意を

受けたが、今も当時も当の本人には記憶がないようだ。

 

彼とは、大晦日に「初日の出」を見に行こうとバイクで

向かう途中、後続の私の前で、彼は信号無視で右折し、

タクシーと衝突事故を起こした事もあった。

 

タクシーの運転手のおじさんは、

「20年以上、無事故無違反だったのに・・・」と

病院の待合で同席した私に嘆いていた。

 

彼とは12年ほど前、FBを通じて再会した。

卒業から再会まで30年近くの空白の期間は長いが、

お互い様々な経験や出来事があり、共に頭髪は白く

なったが、すぐに学生時代の関係に戻れたと思う。

 

その彼も最近、脳梗塞でリハビリ中だという。

だが、大丈夫だ。

彼は武〇〇荘のジュリーと言われた男だ。

また、元気になって、暴れましょう。Sくん。

私は傍観していますが。。。




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火曜日

これから


このブログを書き出したときは、業界歴も

30年以上あるし、当時の出来事を思い出して

いけば、ネタはそこそこあるだろう、と

高を括っていたが、200話くらいから

パチンコ関連の話題も尽きてきた。


今までの経営者とのやり取りやブラックな話も

まだあるが、迷惑が掛かることもあり、

しばらくは、あまりパチンコ内部のことには

拘らないで、思いついたことを気ままに

綴っていこうと思う。


振り返れば、

私がP業界に入ったのは昭和62年だ。

それまで兄の経営する喫茶店を兄妹で

手伝っていたが、人手不足でもあり、祖父母、

叔父たちが親族間で話し合い、家業を継げない

甥っ子たちを、それぞれ預かろうとなり、

同じ年のいとこは1番上の叔父の経営する

大阪地区のP店へ。

私は4番目の叔父が経営する福井県のP店への

就職が決まった。

 

上の世代は兄弟が5人、姉妹が2人で、

そのうちの長女である大叔母が嫁いだ先が

パチンコ店だった関係で、長男(大叔父)、

四男がそこで経営の指南、援助を受けて

パチンコ業に入った。

 

私の父は二男だが、長男がパチンコ業へ

転身したため、父(祖父)の運送業を継いだ。


1番下の叔父(五男)は秀才で、日本の大学を

卒業後、韓国の大学院にも行き、韓国大使館に

勤務(金大中拉致事件の前に辞めていて、

もう少しいれば巻き込まれて大変だった)。

 

関西の大学の講師などで働いていたが、当時は在日

韓国人の大学教授登用はなく、研究者の道を諦めて

大叔父のパチンコ店へ転身したが、学問と商売は

別物だったようで、最後まで1店舗も持たせて

もらえなかった。

本人にもそういう欲がなかったのかもしれない。


 私が20才になるころには、それまでの

父の放蕩が原因で、せっかく継いだ会社の経営は

破綻していた。(のちに大叔父が買い戻した)

同じ年のいとこの父は三男だが、この叔父も商売が

うまくいかず、今後のことを考え、私と同様に

P業界への転職となった。(民族系の銀行にいた)

私も、同じ年のいとこも、今でいう「親ガチャ」で

外れを引いてしまった。それは私の妹も同様だ。


私は叔父の会社で5年ほどお世話になったが、

自ら飛び出し、求人誌の応募で転職した。

その後、親戚筋の同世代の中で、身内以外で職を得て、

他人様の会社で生計を立てて生きてきたのは私だけ

だったようで、その一点だけは、兄に褒められた。

 

しかし、他人の会社で職を得られたのは、いい加減な

仕事ぶりだったが、4番目の叔父のパチンコ店で

ノウハウを教えてもらったおかげだ。同じ業種で

私なりに苦労はしたが、なんとか生き残って来た。

 

クセのある人種のなかで揉まれながら、あと一歩を

踏み外さずに歩いて来られたのも、いままで関わって

きたまわりの人々のおかげだ。今になってそう思う。

当時は、ありがたさを感じなかった。

 

人の上で立ってやって来られたのは、

人の下で支えてくれる人がいたからなのに、

当たり前のように過ごしていた。

 

だから今も私の周りには人がいないのだ。

 

これからは、私は人の上に立って

仕事をすることはないだろう。

いかに人の下で誰かを、何かを、支えていけるかが、

残りの人生の役回りだと思う。



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木曜日

たのもし


当時在籍していた会社の社長が参加している

「頼母子講」に代理として、何度か行かされた。

 

社長自身は、知り合いを通じての会だったが、

渋々参加しているようで毎回行くのを嫌がり、

私が何回か代わりに行った。

 

月10万円を毎回10人が持ち寄り、集まった

100万円を順次利用していくシステムで、

持ち越しもあり、緊急時にまとまったお金が必要な

時は助かる互助会(共済金)みたいなものだ。

 

毎月10万円は額が多く、参加者の大半は自営業者が

ほとんどで、「反社」関連の方も数名参加しており、

それが、社長が行くのをためらう理由だった。

なら辞めればいいのに、従来の弱気と、

昔からの縁で断れない。

 

その知り合いは、元々は「堅気」だったのが、

その筋関係に興味があり、若い時から素地が

あったのだろう。「企業舎弟」として、

その組織でもなかなかの立場の人もいた。

 

私とも同世代だったが、代理で来た私とは話が

合わず、懇意にはならなかった。

 

私はヤクザには興味もなく、その世界のことは

P業界に入った時によく聞かされていたので、

「ブログ・原点(昭和編)」

個人的な付き合いは一切お断りしてきた。

 

経営者である社長が、このような会に従業者(私)を

参加させることの危うさ。

 

ブログ・奮闘記1(平成編)にも記載したが、

会社に反社が入り込む原因を経営者自らが

作って来たのだ。

 

私がヤクザに興味があったなら、元の木阿弥だ。

会社を食い物にして、かき回し、利権を作っていただろう。

 

私のような良い人間で良かったでしょ。社長。




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月曜日

予感


昨日、走行中から見るパチンコ「マルハン」は

久しぶりに駐車場が満杯だった。

コロナ以降、その前後に近隣で大型店が出来てから

そこの「マルハン」は苦戦していた。

 

処女開店当初から数年間は、地域一番店になり、

全国に多数あるマルハン系列店のなかでも、上位に

位置する稼働、客入りだったと業者経由で聞いていた。

 

遊技組合の支部会議などで、開店時よりそこの店長とも

何度か雑談を交わしたが、新卒より6年程でマネージャー

となり、2年間隔で移動転勤も多く経験する社内では

昇進組の一人のようだ。

 

「マルハン」は私が業界に入ったころは神戸周辺で

数軒もつ関西のローカル店だった。

 

一時期、ボーリングブームに乗って多角経営に乗り出し、

苦境に陥ったホールも多かったが、マルハンもそうだった

と聞く。パチンコ営業では関西から、静岡地区出店以降、

一気に拡大して苦境から脱出し、いまの全国多店舗経営の

礎になったようだ。

 

許認可営業であるパチンコ店は、さまざまな法規制の

縛りのなかで同じ許可基準で、遊技設備や遊技機は、

同じ機械を使い、同じ交換率で同じように営業している。

 

もともとは地方で2~3軒だった会社が

今も2~3軒と今や300軒の差。

 

どの業者も同じ土俵で同じようにスタートしたのに、

この差はエグいね。

 

まさか、一法人、同一経営者が

300店、400店(ダイナム)も持つとは。

 

業界に入った35年前の時は夢にも思わなかった。

こんなに大きくなると、パチンコ店はなくならないね。

コロナで減った客も、また、戻りそうな・・・予感。




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改心


私は30才から管理職の立場で仕事をしてきた

関係か、いつも家族から外では

「態度がデカく、横柄でエラそうにしている」

と非難される。

 

ものの言い方や、人と接するときに知らず

知らずのうちに上から目線で接しているようだ。

自分ではそういう自覚もなかった。

それなりに年を重ねて、まわりは年下ばかり。

敬語を使うことも少ない。

 

別れるときは「ご苦労さん」

お願いするときは「頼むで」

相槌は「そうやな」

 

です、ますが、確かに不足している。

これは改めなければいけない。

 

これまでの人生では、舐められないように

虚勢を張って生きてきた。

目を配り、事前に予防線を張って、用心深く、

足元をすくわれないように気を張っていた。

パチンコ屋を辞めたので、

もうそんな必要もないわけだ。


 孔子曰く、60才は「耳順」だ。

まわりの意見を素直に受け入れよう。


嫌われる老人にはなりたくない。

ご令嬢から

「可愛らしいおじい様ね」と言われたい。




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源さん


1996年(平成8年)に登場した三洋の

「CR大工の源さん」は爆裂CR機種で

/3確変、2回ループのフルスペック機種だ。

 

確変終了後、100回の時短もついて、出だすと

連チャンが凄かった。設定が段階あったが、

担当店では全台同じ設定で固定化していた。

 

今も何度も焼き直され、いろいろなスペックで

再販されているが、やはり初期のスペックの印象が

ずっと後発機にも影響し、生き残って来たのだろう。

 

ある日、私が所属した会社の系列店の近隣で

当時の暴力団同士の抗争事件があり、

拳銃発砲による殺人事件があった。

 

殺害された被害者はCR大工の源さんコーナーで

遊技中、後ろから後頭部へ発砲され即死だった。

 

その瞬間、パチンコ店内の喧騒の中、発砲後も

周辺客はハンドルから手を放すことなく

遊技していたらしい。

現実感がなく呆けに取られていたのだろう。

 

撃った犯人は駆けつけた店員に銃口を向けながら逃走。

そのあとは、警察の検証もあり、さすがに閉店したが、

翌日は平常通りに営業した。

大工の源さんコーナーは、閑散としていたらしい。

 

両隣で打っていた遊技客の話では、銃撃された遊技台は、

源さんの「全回転リーチ」がかかっていたらしい。

 

撃たれた客が遊技台に倒れ込みながら、

薄れゆく意識の中で、大当たりを認識していたか

どうかは定かではない。

 

この店舗、後日にも駐車場に放置された車の

トランクから死体が発見された。

 

怖ろしい。

うちの店でなくて良かったと、心から思った。




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1993年(平成年)ごろ、当時借りて

いたマンションの近くにパチンコ屋があり、

遊びに来ていた親父と二人で千円ずつ、

冷やかし半分で打ちに行った。

 

ニューギンの「エキサイトジャック2」と

いう機種で、1/223の確率の保留玉

連チャン機だ。

 

二人並んで座り、千円ずつ投入。

私は回目の回転ですぐリーチがかかり、

すんなり大当たりとなった。

 

引きが良いのか当時は結構1~2回転で、

かかることもあり、百円で一発機を当てる

こともあった。

 

結果、1万円ちょっとのプラスになったので、

親父に1万円を小遣いで渡し、駅前で別れた。

 

2時間後、親父がまた来た。

1万円すったので、また貸してほしいとの事。

 

当時は田舎でのパチンコ店を辞め、妻が出産のため

市内へ引っ越してきたばかりで、金銭の余裕がなく、

私は強い口調で怒ってしまった。

その時の怒りを覚えながら目を伏せた父親が

そのあと不憫に思い、その後はけっこうな頻度で

小遣いを渡してしまった。

 

博打を打つ人間には、1万も10万も100万円も

一緒で、負ければ、すぐなくなってしまう。

「すっからかん」になり、よく車をかたにして

帰ってきていた。

 

享年69だったが、知人兄弟の中では、わが父は

嫁子供を持つような男ではなかったらしい。

若いときに簡単に商売で大金を掴んでしまい、

その後、放蕩癖がついてしまったようだ。


晩年、癌を発症し、親から継いだ会社を破産させ

ながらも、長男(兄)の援助のおかげで乞食に

ならなかった。それはそれで運が良いのだろう。

 

父親が死んだ年に近づいている。

少ないながら私は知人や子供たちにどう思われて

いるのだろう。

父同様、自分は情けが薄いのは自覚している。

今さら包容力のある、人情深い、

誠実な初老の男を演じることもできない。

 

今まで通り生きていくだけだね。




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木曜日


長女は2021年4月に男の子を。

次女は同年5月に女の子を出産した。

還暦の年に二人の孫が生まれ、じいさんになった。

自分への責任がない分、初孫は可愛いというが、

当初は、自分の子の時のほうが、数倍可愛く思え、

まだ自ら動けぬ赤ちゃんは他人のように感じた。

 

だが、会うたびに二人の成長が見えるようになり、

乳児から幼児に成長していくと、それぞれの個性が

はっきりし出してくる可愛さで、興味深い。

 

自分も経験したことだが、子育ては大変だ。

いきなり暴君が現れ、平凡な生活に嵐を呼び込む。

 

あれから30年も経過し、当時の心境をすっかり

忘れていたが、孫の出現で思い出した。

 

たまに会う分には大歓迎だが、頻繁だと微妙だ。

いうことを聞かない。

話が通じない。

ご機嫌を取らないと、寄ってこない。

 

今後の彼らとの交渉には歩み寄りが必要だ。

高度な外交力と体力が求められる。

がんばろう。



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移住


妻は韓国生まれの生粋の釜山人だ。

これは大阪生まれの関西人と同義で、大阪と東京の対比

同様、韓国にもソウルと釜山は二大都市圏として比較

されるようだ。

 

方言も釜山は男性的で面白いニュアンスがあり、

ソウルは女性的で流暢な印象らしい。

大阪弁と東京弁にも似たようなところがあるね。

 

老後は、頻繁に韓国へ行き、可能なら余生を釜山で、

と夢のように少し思っていたが、新型コロナ以降、

本当に夢になってしまった。

 

また、経済的な面でも韓国は個人所得も上がり、

物価も高く、「失われた30年」の経済低迷状態の

日本と逆転しつつある様だ。

実際、予定している私の「年金」では、

ソウル・釜山の都市圏では生活できない。

東京でも無理だが・・・

 

移住は難しい。

 

もともと世界でアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国と

いわれていた時代でも、世界から見れば「ウサギ小屋」に

住み、「24時間戦いますか」と騙されて働いてきただけで

一般庶民は世界で2番目の経済大国の恩恵など無かった。

 

残る余生、なるようにしかならない。




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陽性


次女がコロナの無料検査(抗原検査)で

陽性だったと、LINEが。

日前に会ったばかりだ。その時、次女も

1才の孫も鼻水を流していた。

 

それを聞いて、

急に私と妻の体調がおかしくなった。

 

私は翌日から鼻水が出はじめ、

妻は全身の節々が痛いと言い出した。

2020年11月に長年勤めた会社を

退社してからは、ほぼ隔離的な生活を

過ごしてきた身には、コロナとは無縁な

生活を過ごしてきた。

 

娘は翌日、病院でPCR検査を受ける予定

だったが、保健所に連絡すると、無料検査の

陽性の時点でコロナ登録するらしい。

「みなし陽性」というやつか。

 

症状はそれほどキツクなく、子育てとここ最近

勤め先も忙しく、逆にいい休養になれば良いが。

 

その後、私の鼻水はすぐ治まり、体調には変化はなく、

妻は関節の節々が痛く、熱はないが体がだるいようだ。

それなら普通の風邪の症状だ。

 

「コロナ陽性」でびくついてしまったが、今の調子なら

何ともなさそうだ。

 

これがコロナ陽性なら恐れるに足らずだが、本当は

どうなのだろう。やはり、もっと気軽に精度の高い

PCR検査を受けられるようにしてほしいね。




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土曜日


「チッチッチッチッチ」

アナログ時計の秒針のような音が聞こえる、

らしい。私の胸から。

 

大動脈の人工弁への置換手術後に退院し、

帰宅してから二人の娘がすぐに気づいた。

同じ部屋の中では、少々距離があっても、

はっきり聞こえるようだ。

 

妻は気づかず、自分には

「ブツ、ブツ、ブツ」と

聞こえるが、機械音は聞き取れない。

 

会社の事務所でも、向かいに座る事務員には

機械音がはっきり聞き取れるようだ。

 

モスキート音のように、30才くらいまでには、

機械音が聞き取れ、40才くらいでは、微妙なようだ。


人工弁が開閉する時に鳴る音で、生きている証だ。


NETFLIXで「クワイエット・プレイス 破られた

沈黙」というSF映画を観た。

 

ある日、宇宙船が墜落し、見知らぬ宇宙生物が地球上に

放たれた。やつらは視力が無く、音のみに反応し殺戮を

繰り返す。人類の大半は殺され、生存者は音を立てずに

生き残っている。なんせ、サブタイトルが

「音を立てたら超即死」だ。

腕時計も身に着けず、靴音が出ないよう裸足で

生活し、手話で意思疎通をしながら生き延びている。

 

この映画、二作あり、ともに90分程度の短編作で

展開、ストーリーには矛盾がいっぱいあるけど

まあまあ、面白かった。

 

胸から「時計の音」がする私は、超即死だけどね。




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