火曜日

これから


このブログを書き出したときは、業界歴も

30年以上あるし、当時の出来事を思い出して

いけば、ネタはそこそこあるだろう、と

高を括っていたが、200話くらいから

パチンコ関連の話題も尽きてきた。


今までの経営者とのやり取りやブラックな話も

まだあるが、迷惑が掛かることもあり、

しばらくは、あまりパチンコ内部のことには

拘らないで、思いついたことを気ままに

綴っていこうと思う。


振り返れば、

私がP業界に入ったのは昭和62年だ。

それまで兄の経営する喫茶店を兄妹で

手伝っていたが、人手不足でもあり、祖父母、

叔父たちが親族間で話し合い、家業を継げない

甥っ子たちを、それぞれ預かろうとなり、

同じ年のいとこは1番上の叔父の経営する

大阪地区のP店へ。

私は4番目の叔父が経営する福井県のP店への

就職が決まった。

 

上の世代は兄弟が5人、姉妹が2人で、

そのうちの長女である大叔母が嫁いだ先が

パチンコ店だった関係で、長男(大叔父)、

四男がそこで経営の指南、援助を受けて

パチンコ業に入った。

 

私の父は二男だが、長男がパチンコ業へ

転身したため、父(祖父)の運送業を継いだ。


1番下の叔父(五男)は秀才で、日本の大学を

卒業後、韓国の大学院にも行き、韓国大使館に

勤務(金大中拉致事件の前に辞めていて、

もう少しいれば巻き込まれて大変だった)。

 

関西の大学の講師などで働いていたが、当時は在日

韓国人の大学教授登用はなく、研究者の道を諦めて

大叔父のパチンコ店へ転身したが、学問と商売は

別物だったようで、最後まで1店舗も持たせて

もらえなかった。

本人にもそういう欲がなかったのかもしれない。


 私が20才になるころには、それまでの

父の放蕩が原因で、せっかく継いだ会社の経営は

破綻していた。(のちに大叔父が買い戻した)

同じ年のいとこの父は三男だが、この叔父も商売が

うまくいかず、今後のことを考え、私と同様に

P業界への転職となった。(民族系の銀行にいた)

私も、同じ年のいとこも、今でいう「親ガチャ」で

外れを引いてしまった。それは私の妹も同様だ。


私は叔父の会社で5年ほどお世話になったが、

自ら飛び出し、求人誌の応募で転職した。

その後、親戚筋の同世代の中で、身内以外で職を得て、

他人様の会社で生計を立てて生きてきたのは私だけ

だったようで、その一点だけは、兄に褒められた。

 

しかし、他人の会社で職を得られたのは、いい加減な

仕事ぶりだったが、4番目の叔父のパチンコ店で

ノウハウを教えてもらったおかげだ。同じ業種で

私なりに苦労はしたが、なんとか生き残って来た。

 

クセのある人種のなかで揉まれながら、あと一歩を

踏み外さずに歩いて来られたのも、いままで関わって

きたまわりの人々のおかげだ。今になってそう思う。

当時は、ありがたさを感じなかった。

 

人の上で立ってやって来られたのは、

人の下で支えてくれる人がいたからなのに、

当たり前のように過ごしていた。

 

だから今も私の周りには人がいないのだ。

 

これからは、私は人の上に立って

仕事をすることはないだろう。

いかに人の下で誰かを、何かを、支えていけるかが、

残りの人生の役回りだと思う。



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