金曜日

次の一手


大学の事務員補助のパート仕事は2年契約なので、来年2024年の

3月末で終了する。更新があるかどうかは分からない。1年の更新は

ある場合もあるようだ。私は障碍者枠での採用なので、不明だ。

前任者は同枠で10年以上勤め、年齢は私より6歳上だったが、自己

都合で辞められ、私が後任になった。

 

来年の雇止めだと4月で63才。65才の年金まで丸2年。

 

本年4月に障害年金の更新があったので後3年は継続となり、65才の

老齢年金支給月までは、大丈夫だ。

 

しかし、大学の事務補助では120時間/月働いているので、失職すれば

収入減が大きい。最近行きだした朝の生活介護施設のバイトは40時間/

なので、新たな仕事を探す必要が。

政治は高齢者雇用促進を謳うが、現実には63才からの雇用はかなり限定

されてしまう。

 

しかし、月間160時間働いているのに給料は16万円。

時給千円のパートは、まだましな方なのか。

持ち家なので住居費はかからないが、固定資産税は所得に関係なく。

非課税世帯になるので住民税はかからない。

収入が少なくても健康保険、介護保険、厚生年金、雇用保険などは

有無を言わせず引かれる。

 

NHK受信料は、非課税世帯と障害者手帳で全額免除の手続きをした。

毎年調査するので、課税世帯に戻ったら、すぐ連絡が必要と、税務署の

いじわる職員のごとく一言では腹が立った。

 

アマゾンプライムなら500円。ネットフリックスでも千円ほどで、

世界中の動画をほぼ見放題の時代に、地上波1225円、BS2170円、

合わせて3400円のヤクザのみかじめ料のごとく金銭を毎月請求される

のだから日本人は本当にお人よしだ。

税金の様に徴収するなら2~300円かそこらだろう。

 

次の一手をどうするか。

65才からの老齢年金をもらっても十分満足のできる金額でもなし。

いずれにしても何らかの形で仕事は継続していくのだから、残る余生、

日常が不自由なく過ごせる健康寿命は10年もないだろう。

 

次の最善の一手を、まだまだ詰まないように、(詰んだら終いだからね)

今さらながら「人生の指南書」ってないものかね。




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運転手3


朝の生活介護施設からのお迎え運転手の仕事もだいぶ

慣れてきた。

迎えに行く利用者にも認識されつつあるように感じる。

私の車両の利用者は最重度の知的障害が4名、重度1名、

中度名で、最重度の利用者は発語が出来ない。

 

季節は初夏の匂いを感じるこの頃だが、出発時の早朝

時間には半袖Tシャツでは肌寒く、朝昼の気温差の調整が

むずかしい。

車内の空調には、利用者からの反応がないので特に注意

している。後部には開閉できる窓がなく、こまめに空調を

入り切りしている。

 

2~3歳児を預かっている感覚だが、身体は大人で大きい。

車から突然の飛び出し、自傷・他害も重度の障害者には多い。

嚙みつきで車のボディーには数か所、歯形が付いて凹んでいる。

他人や自分に噛みつくのを注意され、車に向かったようだ。

 

普段は車内で寝てばかりの19歳の最重度の女性が、走行中に

シートベルトを外し、ドアノブを触った。

チャイルドロックがかかっているので事なきだが、油断大敵だ。

 

窓に頭部を何度もぶつけたり、叩いたり、奇声を発し、発語の

ある利用者は大声で叫び、独り言を念仏のように唱えている。

 

面接時に、車内での様子は怖がる人も多いので懸念するが、

あなたの経歴(パチンコでの業界歴)なら、ややこしい人にも

応対してきたので大丈夫でしょうと、若い時にパチプロだった

という鷹揚そうな施設長が「採用!」と太鼓判を押してくれた

のだが、思いのほか私も気にはならず、ノンストレスだ。

 

続けられるだけ続けて行きたい、と思う。




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木曜日

ダジャレ


明日は休日だ。気候も緩んできた、先週末は久しぶりに車を

洗った、天候次第だが、ドライブがてら中高校生の同窓生が

開店したというピザ屋へ行ってみよう。

 

あなけんの舞台にも一緒に行った〇ッチくんから、FB

開店したとのお知らせもあり、営業時間、店休日を確認した。

明日は大丈夫のようだ。

 

信楽焼・お茶で有名なところで、ここは以前より知り合いも

いて、何度かこの近辺は車で訪れていた。

 

自宅からは山あいの市道をショートカットし、瀬田川を渡り、

30分ほどで行ける。

電動アシストのマウンテンバイクでも何度も通った道だ。

 

オーナーの彼の名前は確かに記憶もあったが、学生時代は

印象に残るような接点もなく、再会しても今一つ共通の

話題がないようで心許ない。

 

屋号は「girasole_asamiya」ジラソーレ朝宮。

イタリア語で「ひまわり」の意味だそうだ。

 

名前を名乗るとすぐ思い出してくれた。

開店以降の心労で体重がかなり減ったようだ。

商売は軌道に乗るまでが大変だ。

 

オーダーを注文してから本格的なピザ窯で焼くので、

すこし出てくるまで時間がかかる。

食べるの「ジラサーレ」た。

めんごめんご、駄目んご。オヤジの発想は同じ時代に生きて

きたのだから同じになってしまう。

 

ピザが焼きあがる間、二人で昔話をした。

同じクラスだったかどうかお互い記憶があいまいだが、

共通の友人も多く、それぞれの近況も確認し合った。

 

私の家の近所の工務店でこの店舗の工事をしたようだ。

自治会の清掃などで面識もあり、世間は狭い。

テイクアウトでピザは持ち帰り、妻と一緒に食べた。

生地がしっかりしていて美味かった。

また、ゆっくり尋ねるとしよう。




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月曜日

大衆娯楽

 

パチスロの歴史

号機  19801985年(年)  昭和55年~60年

号機  19851088年(年)  昭和60年~63年

号機  19881990年(年)  昭和63年~平成2年

号機  19901992年(年)  平成2年~平成4年

号機  19922005年(13年) 平成4年~平成17年

5号機  2005年〜2015年(10年)平成17年~平成27年

5.5号機 2015年〜2022年     平成27年~令和4年

6号機  2022年~          令和4年~


私が生まれたのは1961年(昭和36年)なので、20才(成人)前後に

パチスロ0号機が誕生した。

 

「パチンコスロット=パチスロ」という形でパチンコ店へ設置されてから

40数年。6号機になるまで元号が3つも変わっている。

 

といってもパチンコ店でパチスロも打つようになったのは、2号機からの

50枚の保留メダル機能が付いた頃だろうか。

それまではあまり関心もなかった。


遊び始めの遊技の中心はいつでもパチンコで、最初は羽根物が多かったが、

慣れるにつれ、短時間で遊べる一発機に移行していった。

 

今でも遊技客の中心が中高年齢層に多いのは、オール10などの

一般電役から羽根物に移行し、フィーバー機、一発機、権利物など段階を

踏んでパチンコの歴史と共に慣れ親しんできたせいだろう。


韓国や台湾などでも一時パチンコが沸いた時期もあったようだが、

向こうではいきなり高射幸性の改造されたフィーバー機から始まった。

日本で長年培ってきた大衆娯楽としてのパチンコではなく、完全な

ギャンブルとしてスタートしたため、遊び=娯楽の感覚はないのだろう。

勝った負けたの完全な博打だ。


今後もし違う国で、新たな産業として「パチンコ」を広めるなら、

いきなりフィーバーではなく、正村ゲージが始まったころの基本的な

ゲージ構成の単純なゲーム性の手打ちから始めるのがパチンコを根付か

せる早道ではないだろうか。急がば回れだ。

手打ちの時代のパチンコ機は特許権も切れている。


パチンコ本来の面白さ、球が打ち出され、数百本の釘に弾かれながら、

入賞口に入るとチンジャラチンジャラ出てくる。

チューリップが閉じたり開いたり、奇妙な形状の役物や、目に優しい

電飾などで楽しみながら、適度な射幸性を求める。


いままでパチンコがなかった国でやってみたいね。

100円パチンコ。100円で遊べるところから始まって終わる。

過激にならぬよう。パチンコは大衆娯楽だったのだから、

そこから逸脱しないように。


でも欲望は際限なく、また同じような道、歴史を辿るんだろうね。




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土曜日

ぱちんこ機


パチンコの遊技台は、汚れを落とす際、セルを外して前面から

薬剤で釘を洗っていた。中古機の購入時は必ず、業者に洗いを

依頼し、釘はピカピカだった。

 

当時のパチンコ台は裏構造も単純で、セーフ玉の払い出しは、

玉が入賞口に入るとシーソーが玉を乗せて上下に動き、出玉の

7個なり13個の玉が入ったシャッター(賞球)ケースが切れて、

上皿に払い出される。

そのためフィーバー機が出だした頃は、一気に入賞口に玉が入る

ので、シャッターが間に合わず入賞玉が裏どまりになって溜まり、

玉が出てくるまで待って、あとでアタッカーに相当数の玉を入れて、

帳尻合わせで補填していた。

 

羽根物機種も多彩に設置されていて、平和のゼロタイガーや三共の

キングスターは展開もスリリングで出玉スピードも速く、人気だった。

羽根の裏のバネの強度を強くし、羽根の開閉を早めたり、役物の下に

厚紙を入れ角度を変えたりと、いろいろとせこい工夫をする釘師も

いたなあ。(僕ではないよ)

 

私が最初に師事した釘師は三共系の釘師で、上げ釘が特徴だった。

当時は機械メーカーも納品時から積極的に釘の調整に関わり、

割数が落ち着くまで、自社の遊技機の面倒を見てくれた。

三共系は上げ釘。竹屋、西陣は若干下げ釘など、それぞれ個性が

あった。

 

師事したといっても手取り足取りは教えてはもらえず、

後ろから手もとを見るだけだった。まあ、食事中にする業界の

よもやま話、割数の考え方などは面白かったし、参考になった。

 

遊技機のガラスは普通の透明ガラスで1台に2枚通していた。

サイズは平和が405×405 だったか。各社微妙にサイズが

異なり、当時からサイズ統一を要望していたが、実現しなかった。


今のような強化ガラスではないので、肘が当たったり、思わず

叩いてしまうと良く割れて、怪我をする客もいた。

 

台によっては玉の飛びが悪く、強くなったり、弱くなったり。

玉を当てて飛ばすバネ先のことを「テッポウ」と言い、球にあたる

箇所の調整を、器具を使ってやっては見るが、構造が単純なだけに、

レールの汚れや角度、ハンドルの飛びの強弱でムラが出るので難しい。

 

ホール勤務でよく呼ばれるのは、遊技玉の表どまり。

玉が釘の間に引っかかり、止まってしまう。

釘師の怠慢だ。釘は放置していると、閉まってくる。定期的に

入賞口をチェックする必要がある。呼ばれると、サービス玉を

決められた数だけ入れるが、同じ台、同じ個所で何度も呼ばれるので

飽き飽きする。


フィーバー機が出始めた頃、大当たりすると、

マイクで連呼していた。

「おめでとうございます。120番台のお客様、

フィーバースタートお~」

「了解!! 120番台のお客様~、フィーバースタート、

ありがとうございます!!」

あちらこちら、終日マイク放送が鳴り響き、客を扇動する。

 

ホールでの喫煙は当たり前だが、飲酒は禁止していた。

敷地内の飲食店で酒を飲んで戻ってくるのは大歓迎。

酒癖の悪い客は厳重注意だ。

 

掛け持ち遊技は厳しいホールと緩いホールと格差があった。

客が少なくても、掛け持ち遊技をさせると、ハンドルの固定遊技も

含めて、ホール内の規範がなくなって客筋が悪くなり、一般客が

寄り付かなくなる。要注意だ。

 

田舎のホールにいた時は、2階の事務所で金融屋(金貸し)もやり、

店長は見た目も実際も「その筋」関係(元)だったので、地元では

揉め事はなかった。

 

遊技台の天板(カウンター)に足を乗せて打つ行儀の悪い客は、

後ろから椅子をひっくり返し(移動式の椅子だった)、注意する

(恫喝)するような店長だったので、無茶苦茶だが、それでも

地元客は「ごめん」と言って納得していたのだから、いまでは

不思議で面白い。


捕まえた不正客(ゴト師)を事務所でボコボコにし、

「山へ捨ててこい」と、

言われた私は困ってしまった。(最寄りの駅で降ろしました)

 

ああ、昭和のホールは、当時は嫌で嫌で仕方がなかったけど、

今思うと、面白かったね。




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あの頃


最初にホールに勤務し出した頃は、パチスロ機の設置は少なく、

総台数300台の店舗では10%の30台くらいの台数だった。

 

記憶にあるのは「パルサー」尚球社、

「アメリカーナ」ユニバーサル、

「ジャックポット」オリンピア。

これらの機種はネットでみると

1980年代発売の0号機になるようだ。


1985年(昭和60年)に新風営法が施行されて初めて

パチスロ機にルール付けされたのが1号機なので、それ以前は

ルール無用のやりたい放題だったわけだ。


「ジャックポット」は岡崎産業だと思っていたが、

オリンピアが先行だったんだね。

他の機種にも同じ名で各社から出されており、ややこしい。

 

勤務先の福井県のホールにはサミー工業のナイアガラ、

日活興業のパルサーXX、パル工業のペガサスなどが設置台数も

少ないこともあり、人気だった。

特にペガサスは朝から並ぶほどだった。

これらは区分では1号機になるようだ。

 

たしか、パチスロ機の設置比率やフィーバー機の比率などは

当時の組合でそれぞれ基準を決め、申し合わせていた。

 

以降、山佐のプラネット、パルサーなどがシリーズ化された。

実際、自分が扱った(設定を入れた)機種は、

主に2号機以降になる。

 

オリンピアのバニーガール(白パネル)、サミー工業の

アペックス、日活興業のフルーツチャンス。この時代の機種は

「かばん屋」も暗躍していて、閉店後のホールではハンダの焼ける

匂いや封印シールをはがすドライヤーの音が夜のしじまに響き、

モーニング用の打ち込み機をセットしながら2時、3時まで

眠い目をこすっていた。

 

3号機になると高砂のドリームセブン、山佐のスーパープラネット、

パル工業のペガサスEXA、瑞穂 コンチネンタル、ニイガタ電子の

リノ、ユニバーサルのコンチネンタルⅡ。3号機は今一つゲーム性が

乏しく、仕込み(裏)モノが多かった印象になる。

 

この当時は入替の頻度も少なく、3か月~半年に一度のペースで

結構多めに入替し、全台打ちの大掛りな開店をしていた。


1992年(平成4年)パチンコのCR機種が出始めた頃より

パチスロ機は4号機の登場となる。

 

技術介入の幕開けとなった「クランキーコンドル」

CTを搭載したBタイプの「アステカ」

AT時代の幕開け「獣王」

BIG1回で平均600枚以上の獲得が可能な「大花火」

711枚獲得の1G連の出玉性能の「吉宗」        

64万台を売り上げた「北斗の拳」、

大都販売の「押忍番長」などなど。

 

パチンコもスロットも出玉性能が飛躍的に向上し、

平成の時代は業界のピークになった。

遊技人口、売上、産業としての注目度も上がる半面、

のめり込みや依存症からの生活破綻や、消費者金融の多重債務

などの社会問題となり、その後は規制、遊技機強制撤去、5号機、

6号機と、性能ダウンによる客離れと、ダメ押しはコロナ渦。

2023年6月の時点でホール数が7000店舗を切っている

ようだ。(平成のピーク時は18000店舗あった)

 

2025年の大阪万博以降は、カジノが新設され、

主にスロット専門の賭場になるようで、水面下での業界団体の

利権争いは、し烈だろう。


過去に強制撤去になったミズホのミリオンゴッドのような一撃

100万円になるような高射幸のゲーム内容になるだろうね。


そもそも遊技でもなく、風営法にかかるわけでもなく、保通協通過の

認定機でもない博打なのだから、言わずもがな、だね。




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金曜日

オオハナビ


大花火。

2000年前後のパチスロ機で、後発の大都販売「ヨシムネ」に

繋がる人気機種だった。アルゼ社の1回のBIGで600枚狙える

大量獲得機種だ。


筐体上部に大きな「鉢巻リール」があり、子役やチャンス告知

などの演出や左側の3連ドンちゃんは見やすく、若年層を中心に

多くのホールで設置された。

 

担当した150台のパチスロ専門店では、「ヨシムネ」

「オオハナビ」を列単位で設置し、売上UPに貢献してもらった。

 

しかし、利益の方はこの機種、思いのほか割数が高くて、

設定①でも機械割数(売上の絡まない理論値)は100%を

超えており、また技術介入度が高く、日によっては持出し

(赤字)になる日もあった。

1回の獲得枚数も多く、出率も高いので、人気を博したのだろう。

 

ユニバーサル・エレコ・メーシー・アクロス・ユニバーサルブロス、

ミズホの6社が1998年に「アルゼ」に社名変更し、その後、

(株)ユニバーサルエンターテイメントに統一、変更された。

 

パチスロメーカーでは上記の各社を揃えるメーカーをけん引、統括し、

何せ2002年には元警視総監がアルゼ社の常勤顧問になったのだから

何をか言わんや、だ。

 

2015年には日電協を脱退し、唯我独尊の経営方針で、その姿勢は

業界では不評、批判も多かったが、発売される機種は射幸性も高く、

ゲーム内容も他社からは抜きん出ており、多くのホールは選択肢のない

購入に憤懣やるかたない状況だったと思う。

 

創業者の岡田和生氏。

メーカーもホールも創業者たちの体質はみな同じようで、ワンマンで

ブラック。良きも悪くも「昭和」の立志伝中の人になるのだろうね。

 

パチスロにハマったあの頃。アルゼ系の遊技機にはいろいろ・・・だね。



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