パチンコの遊技台は、汚れを落とす際、セルを外して前面から
薬剤で釘を洗っていた。中古機の購入時は必ず、業者に洗いを
依頼し、釘はピカピカだった。
当時のパチンコ台は裏構造も単純で、セーフ玉の払い出しは、
玉が入賞口に入るとシーソーが玉を乗せて上下に動き、出玉の
7個なり13個の玉が入ったシャッター(賞球)ケースが切れて、
上皿に払い出される。
そのためフィーバー機が出だした頃は、一気に入賞口に玉が入る
ので、シャッターが間に合わず入賞玉が裏どまりになって溜まり、
玉が出てくるまで待って、あとでアタッカーに相当数の玉を入れて、
帳尻合わせで補填していた。
羽根物機種も多彩に設置されていて、平和のゼロタイガーや三共の
キングスターは展開もスリリングで出玉スピードも速く、人気だった。
羽根の裏のバネの強度を強くし、羽根の開閉を早めたり、役物の下に
厚紙を入れ角度を変えたりと、いろいろとせこい工夫をする釘師も
いたなあ。(僕ではないよ)
私が最初に師事した釘師は三共系の釘師で、上げ釘が特徴だった。
当時は機械メーカーも納品時から積極的に釘の調整に関わり、
割数が落ち着くまで、自社の遊技機の面倒を見てくれた。
三共系は上げ釘。竹屋、西陣は若干下げ釘など、それぞれ個性が
あった。
師事したといっても手取り足取りは教えてはもらえず、
後ろから手もとを見るだけだった。まあ、食事中にする業界の
よもやま話、割数の考え方などは面白かったし、参考になった。
遊技機のガラスは普通の透明ガラスで1台に2枚通していた。
サイズは平和が405×405 だったか。各社微妙にサイズが
異なり、当時からサイズ統一を要望していたが、実現しなかった。
今のような強化ガラスではないので、肘が当たったり、思わず
叩いてしまうと良く割れて、怪我をする客もいた。
台によっては玉の飛びが悪く、強くなったり、弱くなったり。
玉を当てて飛ばすバネ先のことを「テッポウ」と言い、球にあたる
箇所の調整を、器具を使ってやっては見るが、構造が単純なだけに、
レールの汚れや角度、ハンドルの飛びの強弱でムラが出るので難しい。
ホール勤務でよく呼ばれるのは、遊技玉の表どまり。
玉が釘の間に引っかかり、止まってしまう。
釘師の怠慢だ。釘は放置していると、閉まってくる。定期的に
入賞口をチェックする必要がある。呼ばれると、サービス玉を
決められた数だけ入れるが、同じ台、同じ個所で何度も呼ばれるので
飽き飽きする。
フィーバー機が出始めた頃、大当たりすると、
マイクで連呼していた。
「おめでとうございます。120番台のお客様、
フィーバースタートお~」
「了解!! 120番台のお客様~、フィーバースタート、
ありがとうございます!!」
あちらこちら、終日マイク放送が鳴り響き、客を扇動する。
ホールでの喫煙は当たり前だが、飲酒は禁止していた。
敷地内の飲食店で酒を飲んで戻ってくるのは大歓迎。
酒癖の悪い客は厳重注意だ。
掛け持ち遊技は厳しいホールと緩いホールと格差があった。
客が少なくても、掛け持ち遊技をさせると、ハンドルの固定遊技も
含めて、ホール内の規範がなくなって客筋が悪くなり、一般客が
寄り付かなくなる。要注意だ。
田舎のホールにいた時は、2階の事務所で金融屋(金貸し)もやり、
店長は見た目も実際も「その筋」関係(元)だったので、地元では
揉め事はなかった。
遊技台の天板(カウンター)に足を乗せて打つ行儀の悪い客は、
後ろから椅子をひっくり返し(移動式の椅子だった)、注意する
(恫喝)するような店長だったので、無茶苦茶だが、それでも
地元客は「ごめん」と言って納得していたのだから、いまでは
不思議で面白い。
捕まえた不正客(ゴト師)を事務所でボコボコにし、
「山へ捨ててこい」と、
言われた私は困ってしまった。(最寄りの駅で降ろしました)
ああ、昭和のホールは、当時は嫌で嫌で仕方がなかったけど、
今思うと、面白かったね。
写真素材 pro.foto
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