月曜日

世襲


パチンコ店での跡取りは会社にもよるが、

創業者から数えて、四代目も出てくる今頃かな。

 

私が仕えたのは大概、初代・二代目で、三代目が入社して

来る頃から、経営者の体質がおかしくなってきた。

 

もとより創業者は総じて、金銭管理を含めて

店舗の管理には厳しく、妥協を許してくれなかった。

人生をかけて、立ちあげた商売だ。

毎日が真剣に営業に向き合い、将来の夢や希望も込めつつ

叱咤激励され、社長の顔色をうかがいながら仕事をしていた。

 

二代目くらいから、世代も近くなり、経営者との距離も近づき、

雇用される立場としては、労基も順守されつつだが、まだまだ

先代の影響力が強く、経営者内での世代交代への軋轢が、社員にも

影響(内部のゴタゴタというやつだね)し、兄弟間の確執などにも

まともに巻き込まれた。

 

どの時代も、跡目争いは常だろうが、

「わからぬ様、勝手にやってくれよ」だ。

 

三代目にもなると過去には三例ほどしか経験はないが、

全員、ほぼ 「性格が悪かった」。


二代目はまだ、初代の親の苦労は見ているが、

三代目からはダメだ。

皆さん、一夜成金の成れの果てで、みな同様に

甘やかせ、贅沢に育てているので、そんな環境で

育った子どもたちが、入社後、すぐに役員待遇と

なれば、普通に「感覚」が違う。

 

最初から「パチンコ」はイメージが悪い。

と、いうので継ぐのは嫌だが、会社では名前だけの

役員で、報酬をいただきながら、悠々自適に遊び

惚けているのも多くみてきた。

 

中には、厳しく育てられて、家業を引き継いで

いる後継者もいるだろうが、「パチンコ業界」では

稀有だろうと感じる。

 

しかし、世の中。政治家、財界、スポーツ界も含めて

世襲が当たり前になってきているが、子は親を選べない

ので、本当は健全な「社会」が子供たちを育てなければ

いけないのだろうね。




写真素材 pro.foto

土曜日

いとこ


以前「カブトムシ」のタイトルで書いたが、

私の母には年の離れた弟が二人いた。

上の弟(長男)は若い時から病弱で、一時期、結核の

治療のため田舎で療養していた。(カブトムシ)

 

彼の定職は何だったのか、私も幼かったので

はっきりとした記憶はないが、ある時期、クラブ

歌手でステージに立っていた、というのは記憶に

ある。確かに正月で集う場所で歌を聞いたことが

あった。私の母も歌は得意だった。

音楽に素養があったのだろう。

 

母の下の弟(次男)は私とは12歳差。長男はそれ

以上だが、子供ころは叔父とはいえ、ともに若く、

○○ちゃんと名前を呼んでいた。

 

その後、長男は若くして他界し、もともと交流も

少なかったため、彼の子供たち(いとこ)には

会った記憶もなく、存在も知らなかった。

 

ある日、私の兄から年の離れた、いとこの存在を

聞いた。プロのサックス奏者になっているようだ。

YouTubeでも活躍していた。

顔は○○ちゃんそっくりだ。

音楽の素質は親から受け継いだのか。

 

彼は私のことを知らない。

会って伝えるべきか。どう話せばいいのか。

迷っている。




写真素材 pro.foto

友人たち②


高校時代、私を含めてまわりの友人たちに

一番影響を与えたのは友人のG君だ。

高校時代の彼は才気・才覚にあふれ、

学内では目立つ存在だった。

私を含め友人たちは17歳の時に彼に

良きも悪きも影響された。

 

彼とは高2の1年間だけ同じクラスだったのに

自主映画を8ミリで撮った思い出や、彼に誘われて

美術部に入ったこと、先に紹介したS君や彼の家で

頻繁に徹夜し、飲酒、喫煙に耽ったことなど、この

時の悪習慣が後の人生にも影響してしまった。


60年、70年は安保闘争があったが、

80年の僕らの時代は、自民党一党独裁政権が

基盤を固めつつ、社会への不満は政治に向かう

のではなく、校内・家庭内暴力など内向きな

身近な局面に向けられていた。

 

多感な時期での「政」と「性」への関心と興味は

多分に17才の少年には「性」に傾き、特に彼は

「性」への欲望で、いつもマグマが爆発しそうだった。

 

独身の教師の部屋へ数人の友人たちと

遊びに行った。

みなで興味津々に性に関する話題になる。

彼は我慢できずにその部屋の

押し入れに入り、自ら慰めていた。

担任教師もさすがに呆れていた。

 

二人で彼の部屋で酒を飲んでいると、

「ストリーキングをする」

といって、突然全裸になり、深夜明け方の

阪〇武庫〇〇駅から彼の家まで走り回った

こともあった。

抑圧されていた気持ちが解放され、

気持ちよさそうだった。

 

あれから40年!(綾小路きみまろ風に)

めまい・貧血・不整脈。

頭痛・腰痛・関節痛。

老眼・物忘れに・娘が嫌がる加齢臭。

顔に刻まれた、しわとしみ。

薄れた感受性と頑迷な思考。

それでもまだまだ死ぬわけにはいかない。

友たちよ。いつでも、どこかで、ひょっこりと

会って、話して、飲んで、楽しもう。




写真素材 pro.foto

友人たち①


高校二年の夏。友人の家でサントリーレッドをストレートで

いい気になって飲んでしまい、二人ともかなり酔ってしまった。

友のS君は当時から今に至ってかなり無鉄砲な男で、酔った

勢いで、自宅近くの公園の周辺に止めている自動車の上に

よじ登り、車の屋根から屋根を凹ませながら飛び回っていた。

「これはやばい」

見つかれば大変な弁償になるや、と、私は彼をなだめ、家へ

連れ帰る途中、警ら中の巡査に補導されてしまった。

 

未成年の喫煙・飲酒で交番所で調書を取られ、すっかり

酔いが醒めてしまったが、ボンネットに飛び乗った破壊行為は

後々も問題とはならず幸いだった。

 

この一件は学校へ連絡され、体育教師からは手厳しい注意を

受けたが、今も当時も当の本人には記憶がないようだ。

 

彼とは、大晦日に「初日の出」を見に行こうとバイクで

向かう途中、後続の私の前で、彼は信号無視で右折し、

タクシーと衝突事故を起こした事もあった。

 

タクシーの運転手のおじさんは、

「20年以上、無事故無違反だったのに・・・」と

病院の待合で同席した私に嘆いていた。

 

彼とは12年ほど前、FBを通じて再会した。

卒業から再会まで30年近くの空白の期間は長いが、

お互い様々な経験や出来事があり、共に頭髪は白く

なったが、すぐに学生時代の関係に戻れたと思う。

 

その彼も最近、脳梗塞でリハビリ中だという。

だが、大丈夫だ。

彼は武〇〇荘のジュリーと言われた男だ。

また、元気になって、暴れましょう。Sくん。

私は傍観していますが。。。




写真素材 pro.foto

火曜日

これから


このブログを書き出したときは、業界歴も

30年以上あるし、当時の出来事を思い出して

いけば、ネタはそこそこあるだろう、と

高を括っていたが、200話くらいから

パチンコ関連の話題も尽きてきた。


今までの経営者とのやり取りやブラックな話も

まだあるが、迷惑が掛かることもあり、

しばらくは、あまりパチンコ内部のことには

拘らないで、思いついたことを気ままに

綴っていこうと思う。


振り返れば、

私がP業界に入ったのは昭和62年だ。

それまで兄の経営する喫茶店を兄妹で

手伝っていたが、人手不足でもあり、祖父母、

叔父たちが親族間で話し合い、家業を継げない

甥っ子たちを、それぞれ預かろうとなり、

同じ年のいとこは1番上の叔父の経営する

大阪地区のP店へ。

私は4番目の叔父が経営する福井県のP店への

就職が決まった。

 

上の世代は兄弟が5人、姉妹が2人で、

そのうちの長女である大叔母が嫁いだ先が

パチンコ店だった関係で、長男(大叔父)、

四男がそこで経営の指南、援助を受けて

パチンコ業に入った。

 

私の父は二男だが、長男がパチンコ業へ

転身したため、父(祖父)の運送業を継いだ。


1番下の叔父(五男)は秀才で、日本の大学を

卒業後、韓国の大学院にも行き、韓国大使館に

勤務(金大中拉致事件の前に辞めていて、

もう少しいれば巻き込まれて大変だった)。

 

関西の大学の講師などで働いていたが、当時は在日

韓国人の大学教授登用はなく、研究者の道を諦めて

大叔父のパチンコ店へ転身したが、学問と商売は

別物だったようで、最後まで1店舗も持たせて

もらえなかった。

本人にもそういう欲がなかったのかもしれない。


 私が20才になるころには、それまでの

父の放蕩が原因で、せっかく継いだ会社の経営は

破綻していた。(のちに大叔父が買い戻した)

同じ年のいとこの父は三男だが、この叔父も商売が

うまくいかず、今後のことを考え、私と同様に

P業界への転職となった。(民族系の銀行にいた)

私も、同じ年のいとこも、今でいう「親ガチャ」で

外れを引いてしまった。それは私の妹も同様だ。


私は叔父の会社で5年ほどお世話になったが、

自ら飛び出し、求人誌の応募で転職した。

その後、親戚筋の同世代の中で、身内以外で職を得て、

他人様の会社で生計を立てて生きてきたのは私だけ

だったようで、その一点だけは、兄に褒められた。

 

しかし、他人の会社で職を得られたのは、いい加減な

仕事ぶりだったが、4番目の叔父のパチンコ店で

ノウハウを教えてもらったおかげだ。同じ業種で

私なりに苦労はしたが、なんとか生き残って来た。

 

クセのある人種のなかで揉まれながら、あと一歩を

踏み外さずに歩いて来られたのも、いままで関わって

きたまわりの人々のおかげだ。今になってそう思う。

当時は、ありがたさを感じなかった。

 

人の上で立ってやって来られたのは、

人の下で支えてくれる人がいたからなのに、

当たり前のように過ごしていた。

 

だから今も私の周りには人がいないのだ。

 

これからは、私は人の上に立って

仕事をすることはないだろう。

いかに人の下で誰かを、何かを、支えていけるかが、

残りの人生の役回りだと思う。



写真素材 pro.foto

木曜日

たのもし


当時在籍していた会社の社長が参加している

「頼母子講」に代理として、何度か行かされた。

 

社長自身は、知り合いを通じての会だったが、

渋々参加しているようで毎回行くのを嫌がり、

私が何回か代わりに行った。

 

月10万円を毎回10人が持ち寄り、集まった

100万円を順次利用していくシステムで、

持ち越しもあり、緊急時にまとまったお金が必要な

時は助かる互助会(共済金)みたいなものだ。

 

毎月10万円は額が多く、参加者の大半は自営業者が

ほとんどで、「反社」関連の方も数名参加しており、

それが、社長が行くのをためらう理由だった。

なら辞めればいいのに、従来の弱気と、

昔からの縁で断れない。

 

その知り合いは、元々は「堅気」だったのが、

その筋関係に興味があり、若い時から素地が

あったのだろう。「企業舎弟」として、

その組織でもなかなかの立場の人もいた。

 

私とも同世代だったが、代理で来た私とは話が

合わず、懇意にはならなかった。

 

私はヤクザには興味もなく、その世界のことは

P業界に入った時によく聞かされていたので、

「ブログ・原点(昭和編)」

個人的な付き合いは一切お断りしてきた。

 

経営者である社長が、このような会に従業者(私)を

参加させることの危うさ。

 

ブログ・奮闘記1(平成編)にも記載したが、

会社に反社が入り込む原因を経営者自らが

作って来たのだ。

 

私がヤクザに興味があったなら、元の木阿弥だ。

会社を食い物にして、かき回し、利権を作っていただろう。

 

私のような良い人間で良かったでしょ。社長。




写真素材 pro.foto

月曜日

予感


昨日、走行中から見るパチンコ「マルハン」は

久しぶりに駐車場が満杯だった。

コロナ以降、その前後に近隣で大型店が出来てから

そこの「マルハン」は苦戦していた。

 

処女開店当初から数年間は、地域一番店になり、

全国に多数あるマルハン系列店のなかでも、上位に

位置する稼働、客入りだったと業者経由で聞いていた。

 

遊技組合の支部会議などで、開店時よりそこの店長とも

何度か雑談を交わしたが、新卒より6年程でマネージャー

となり、2年間隔で移動転勤も多く経験する社内では

昇進組の一人のようだ。

 

「マルハン」は私が業界に入ったころは神戸周辺で

数軒もつ関西のローカル店だった。

 

一時期、ボーリングブームに乗って多角経営に乗り出し、

苦境に陥ったホールも多かったが、マルハンもそうだった

と聞く。パチンコ営業では関西から、静岡地区出店以降、

一気に拡大して苦境から脱出し、いまの全国多店舗経営の

礎になったようだ。

 

許認可営業であるパチンコ店は、さまざまな法規制の

縛りのなかで同じ許可基準で、遊技設備や遊技機は、

同じ機械を使い、同じ交換率で同じように営業している。

 

もともとは地方で2~3軒だった会社が

今も2~3軒と今や300軒の差。

 

どの業者も同じ土俵で同じようにスタートしたのに、

この差はエグいね。

 

まさか、一法人、同一経営者が

300店、400店(ダイナム)も持つとは。

 

業界に入った35年前の時は夢にも思わなかった。

こんなに大きくなると、パチンコ店はなくならないね。

コロナで減った客も、また、戻りそうな・・・予感。




写真素材 pro.foto

改心


私は30才から管理職の立場で仕事をしてきた

関係か、いつも家族から外では

「態度がデカく、横柄でエラそうにしている」

と非難される。

 

ものの言い方や、人と接するときに知らず

知らずのうちに上から目線で接しているようだ。

自分ではそういう自覚もなかった。

それなりに年を重ねて、まわりは年下ばかり。

敬語を使うことも少ない。

 

別れるときは「ご苦労さん」

お願いするときは「頼むで」

相槌は「そうやな」

 

です、ますが、確かに不足している。

これは改めなければいけない。

 

これまでの人生では、舐められないように

虚勢を張って生きてきた。

目を配り、事前に予防線を張って、用心深く、

足元をすくわれないように気を張っていた。

パチンコ屋を辞めたので、

もうそんな必要もないわけだ。


 孔子曰く、60才は「耳順」だ。

まわりの意見を素直に受け入れよう。


嫌われる老人にはなりたくない。

ご令嬢から

「可愛らしいおじい様ね」と言われたい。




写真素材 pro.foto

人気の投稿