昭和46年ごろ、小学校の朝礼は
校庭で行われることが多かった。
校舎の近くにポールがたっており、
行事の時は校旗や国旗が掲げられる。
その横にもう1本黄色か赤か記憶があいまいだが
「光化学スモッグ」の警報旗が時期によっては
頻繁に出され、女児や虚弱体質の子が
バタバタと倒れたことがあった。
当時日本は「公害天国」といわれていた。
近くの川ではメチル水銀が、
山へ行けばダイオキシンが、
テレビでは水俣病やイタイイタイ病が
連日取り上げられ、現実では市内南部を
自転車でひと廻りすると白いシャツが
煤で真っ黒になるぞ、とおどされた。
同じクラスの男の子は
サリドマイド児で両腕がなかった。
ぜんそくの子も多くおり、今から考えても異常だ。
日本は高度成長時代の真っただ中で
世の中がある種の
狂気に包まれていたのかもしれない。
当時はサリドマイドの子や知的障害児も
同じ教室で学んでいた。
彼は両足の指を手のように器用に使い
一緒に給食を食べたり、他の子供たちと分け隔てなく
一緒に授業を受けていた。
しかしある時期から彼らは隔離されるようにクラス
分けが始まり、それ以降一緒になることはなかった。
のちに彼は若くして亡くなったと、
知人から聞いた。
残念だ

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