金曜日

オオハナビ


大花火。

2000年前後のパチスロ機で、後発の大都販売「ヨシムネ」に

繋がる人気機種だった。アルゼ社の1回のBIGで600枚狙える

大量獲得機種だ。


筐体上部に大きな「鉢巻リール」があり、子役やチャンス告知

などの演出や左側の3連ドンちゃんは見やすく、若年層を中心に

多くのホールで設置された。

 

担当した150台のパチスロ専門店では、「ヨシムネ」

「オオハナビ」を列単位で設置し、売上UPに貢献してもらった。

 

しかし、利益の方はこの機種、思いのほか割数が高くて、

設定①でも機械割数(売上の絡まない理論値)は100%を

超えており、また技術介入度が高く、日によっては持出し

(赤字)になる日もあった。

1回の獲得枚数も多く、出率も高いので、人気を博したのだろう。

 

ユニバーサル・エレコ・メーシー・アクロス・ユニバーサルブロス、

ミズホの6社が1998年に「アルゼ」に社名変更し、その後、

(株)ユニバーサルエンターテイメントに統一、変更された。

 

パチスロメーカーでは上記の各社を揃えるメーカーをけん引、統括し、

何せ2002年には元警視総監がアルゼ社の常勤顧問になったのだから

何をか言わんや、だ。

 

2015年には日電協を脱退し、唯我独尊の経営方針で、その姿勢は

業界では不評、批判も多かったが、発売される機種は射幸性も高く、

ゲーム内容も他社からは抜きん出ており、多くのホールは選択肢のない

購入に憤懣やるかたない状況だったと思う。

 

創業者の岡田和生氏。

メーカーもホールも創業者たちの体質はみな同じようで、ワンマンで

ブラック。良きも悪くも「昭和」の立志伝中の人になるのだろうね。

 

パチスロにハマったあの頃。アルゼ系の遊技機にはいろいろ・・・だね。



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火曜日

思い出の酒井先生


中学2年生の時にクラス担任だった酒井先生。

実家が兵庫県の丹波篠山で農業もされており、クラスで

農作業(稲刈り)の体験もさせてもらった。

(授業で行なったのか個人的な主催だったのか、分からない)

というのも一見強面の教師で、男子生徒からはすこぶる

人気だったが、生徒と喫煙、飲酒をしたこと、生徒の

母親と良からぬ関係になった、とか諸々噂話がいろいろとあり、

学校内では諸問題を抱えている所謂不良教師だった。

私はこの先生が大好きで、親父の酒蔵からジョニ黒ウィスキーを

くすね、先生に渡したところ大いに喜ばれた記憶がある。

 

しかし、もともと抱えていた諸問題で学校を辞めることになり、

実家の篠山市へ帰ることとなった。

 

中学3年の夏だったか、高校生になってからか記憶はあいまいだが、

先生の実家へ同級生数名と1泊旅行で遊びに行った。

 

お父上は地元で中学校の校長先生をされており、その縁で再就職

も同じ中学校の教師を続けるようだった。

 

先生の実家は大きく、大きな庭の縁側で取れたての冷えたトマトに

砂糖をかけ、みんなでいっぱい食べた。夜は、僕ら(7~8人いたか)

のために、軽トラックの荷台に皆を乗せ(違反だが)、近くの山の上に

テントやバーベキューをセッティングし、酒を置いて、一晩自由に

キャンプをさせてくれた。

 

山上は、明かりは焚火だけの電灯一つない真っ暗な状態だ。

生まれて初めて漆黒の闇を経験し、真上には落ちてきそうなくらいの

星々や流れ星が見えた。

 

都会育ちの僕たちは一晩中興奮し、朝まで焚火の前で酒を飲み、

騒いでいた。

翌日、山上の声は下界でも良く聞こえ、「楽しそうだったな」と。

 

その後、違う高校に行った友人たちや、就職した友人もいて、

それぞれ新しい関係ができ、会う機会がなくなった。

酒井先生とはその後、まったく連絡しなくなり、私も今回、FB

友人たちの投稿を見るまで、酒井先生のことをすっかり忘れていたが、

あの日の夏の日の思い出はよみがえった。

 

あー、あの時、あんな先生がいたな。

うん、いい先生だった。




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月曜日

「必勝法」


パチンコ業界に入ったのは昭和も終わりに近づく頃だった。

元号が変わり、平成の30年間はずっとパチンコ屋で働いた。

 

地方の田舎のホールから大阪、京都を中心に自身が釘調整を

行い関わったホールは大阪では7店舗。京都でも6店舗。

会社は数社移籍したが、滋賀県で3店舗、福井県で2店舗に

関わった。

そのうち店長として終日勤務した店舗は3店舗のみで、案外

店長経験は少ないと思う。

 

店舗長を指導・補佐しながら店が円滑に運営できるように

求人募集、機種構成・機種の選定、会社からの予算に合わせ

月間の粗利予算を作成し実践していく。

 

平成の初めは連チャン機種(連続性の高い)フィーバー機を

中心に、出玉の多い3回権利機種や一発機と言われる特電機

も活躍しており、単価も高いこともあってフル稼働の店舗は

少なかったが、まだ多店舗化には遠く、競争は少なかった。

 

それから建前は、業界のINOUTのクリア化、脱税防止の

設備変更として行政はクリエーションカード化を推進していく。

大きなシステム変更だ。平成4年頃くらいからか。

 

パチンコの遊技機は特許権の絡みで新規参入、開発は難しい。

パチンコ業界の「旨味」「利権」を遊技機以外の設備関連に見出し、

行政の天下り先や関連業界へ振り分けて行こうとするが、いつの

時代でもそうだが役人が絵を描いてもうまくいかない。

 

出だしのカードは偽造が蔓延したテレフォンカードと同種で、

暴力団関係者に不正カードを大量に流用搾取され、カード会社は

多大な損失を被った。他にも利権がいろいろと絡んで、「わざと

じゃないか」と思うくらい、欺瞞に満ち溢れた嵐の船出だった。

 

しかし、行政が推進するカード化されたパチンコ設備を増やす

には、ホール側が欲しい遊技機にするのが必要で、射幸性の高い

パチンコ機械の開発は必須だった。

 

当時主力だった現金で遊べる機種はギャンブル性が高いと、順次

撤去させ、さらにギャンブル性の高いカードユニット付の遊技機に

変更させていく矛盾。

 

開発するメーカーも、それを許可・認可する行政側も、購入する

ホールも、それらを取り締まる警察も、遊技機の性能の異常性や

業界の本来の在り方(身近な大衆娯楽)からどんどん逸脱して

いき、熱にうなされたように業界は肥大していった。

 

30兆円産業。遊技人口3000万人。全国18000店舗。

 

パチンコで高まった射幸性はパチスロ機種の開発にもつながって

いき、パチンコ・スロットのホール設置比率が1:9か2:8程度

のスロット機が、5:5になり、オールスロット機のパチスロ専門店

までもが登場する次第になって、業界は完全に浮かれてしまった。

 

 

2020年4月の自粛休業。

重なるコロナ規制。

 

2022~23年

遊技機への規制、撤去。

 

昭和の時代から続く規制と緩和の繰り返し。

 

パチンコ店舗数は全国で7000軒をきっているらしい。

 

2023年からは平成に行われたクリエーションシステムから

新たにスマートパチンコ・スロットへのシステム変更。

 

規制と緩和。

 

今度の緩和はもう業界復活には繋がらないだろう。

パチスロのスペックは大阪のカジノでは活かされるかな。

 

どんな業種でもそうだけど、資本家たちはイイ思いをしてきた

し、既得権益をもつ輩たちはこれからも必死に守ろうとするだろう。

 

 

いま、パチンコ・スロットが大好きな皆さん。

ギャンブルに適度はないと自覚し、違うことに興味を振り向けよう。

 

 

「パチンコ必勝法は!?」

 

「やらないこと」



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