木曜日

ダジャレ


明日は休日だ。気候も緩んできた、先週末は久しぶりに車を

洗った、天候次第だが、ドライブがてら中高校生の同窓生が

開店したというピザ屋へ行ってみよう。

 

あなけんの舞台にも一緒に行った〇ッチくんから、FB

開店したとのお知らせもあり、営業時間、店休日を確認した。

明日は大丈夫のようだ。

 

信楽焼・お茶で有名なところで、ここは以前より知り合いも

いて、何度かこの近辺は車で訪れていた。

 

自宅からは山あいの市道をショートカットし、瀬田川を渡り、

30分ほどで行ける。

電動アシストのマウンテンバイクでも何度も通った道だ。

 

オーナーの彼の名前は確かに記憶もあったが、学生時代は

印象に残るような接点もなく、再会しても今一つ共通の

話題がないようで心許ない。

 

屋号は「girasole_asamiya」ジラソーレ朝宮。

イタリア語で「ひまわり」の意味だそうだ。

 

名前を名乗るとすぐ思い出してくれた。

開店以降の心労で体重がかなり減ったようだ。

商売は軌道に乗るまでが大変だ。

 

オーダーを注文してから本格的なピザ窯で焼くので、

すこし出てくるまで時間がかかる。

食べるの「ジラサーレ」た。

めんごめんご、駄目んご。オヤジの発想は同じ時代に生きて

きたのだから同じになってしまう。

 

ピザが焼きあがる間、二人で昔話をした。

同じクラスだったかどうかお互い記憶があいまいだが、

共通の友人も多く、それぞれの近況も確認し合った。

 

私の家の近所の工務店でこの店舗の工事をしたようだ。

自治会の清掃などで面識もあり、世間は狭い。

テイクアウトでピザは持ち帰り、妻と一緒に食べた。

生地がしっかりしていて美味かった。

また、ゆっくり尋ねるとしよう。




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月曜日

大衆娯楽

 

パチスロの歴史

号機  19801985年(年)  昭和55年~60年

号機  19851088年(年)  昭和60年~63年

号機  19881990年(年)  昭和63年~平成2年

号機  19901992年(年)  平成2年~平成4年

号機  19922005年(13年) 平成4年~平成17年

5号機  2005年〜2015年(10年)平成17年~平成27年

5.5号機 2015年〜2022年     平成27年~令和4年

6号機  2022年~          令和4年~


私が生まれたのは1961年(昭和36年)なので、20才(成人)前後に

パチスロ0号機が誕生した。

 

「パチンコスロット=パチスロ」という形でパチンコ店へ設置されてから

40数年。6号機になるまで元号が3つも変わっている。

 

といってもパチンコ店でパチスロも打つようになったのは、2号機からの

50枚の保留メダル機能が付いた頃だろうか。

それまではあまり関心もなかった。


遊び始めの遊技の中心はいつでもパチンコで、最初は羽根物が多かったが、

慣れるにつれ、短時間で遊べる一発機に移行していった。

 

今でも遊技客の中心が中高年齢層に多いのは、オール10などの

一般電役から羽根物に移行し、フィーバー機、一発機、権利物など段階を

踏んでパチンコの歴史と共に慣れ親しんできたせいだろう。


韓国や台湾などでも一時パチンコが沸いた時期もあったようだが、

向こうではいきなり高射幸性の改造されたフィーバー機から始まった。

日本で長年培ってきた大衆娯楽としてのパチンコではなく、完全な

ギャンブルとしてスタートしたため、遊び=娯楽の感覚はないのだろう。

勝った負けたの完全な博打だ。


今後もし違う国で、新たな産業として「パチンコ」を広めるなら、

いきなりフィーバーではなく、正村ゲージが始まったころの基本的な

ゲージ構成の単純なゲーム性の手打ちから始めるのがパチンコを根付か

せる早道ではないだろうか。急がば回れだ。

手打ちの時代のパチンコ機は特許権も切れている。


パチンコ本来の面白さ、球が打ち出され、数百本の釘に弾かれながら、

入賞口に入るとチンジャラチンジャラ出てくる。

チューリップが閉じたり開いたり、奇妙な形状の役物や、目に優しい

電飾などで楽しみながら、適度な射幸性を求める。


いままでパチンコがなかった国でやってみたいね。

100円パチンコ。100円で遊べるところから始まって終わる。

過激にならぬよう。パチンコは大衆娯楽だったのだから、

そこから逸脱しないように。


でも欲望は際限なく、また同じような道、歴史を辿るんだろうね。




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土曜日

ぱちんこ機


パチンコの遊技台は、汚れを落とす際、セルを外して前面から

薬剤で釘を洗っていた。中古機の購入時は必ず、業者に洗いを

依頼し、釘はピカピカだった。

 

当時のパチンコ台は裏構造も単純で、セーフ玉の払い出しは、

玉が入賞口に入るとシーソーが玉を乗せて上下に動き、出玉の

7個なり13個の玉が入ったシャッター(賞球)ケースが切れて、

上皿に払い出される。

そのためフィーバー機が出だした頃は、一気に入賞口に玉が入る

ので、シャッターが間に合わず入賞玉が裏どまりになって溜まり、

玉が出てくるまで待って、あとでアタッカーに相当数の玉を入れて、

帳尻合わせで補填していた。

 

羽根物機種も多彩に設置されていて、平和のゼロタイガーや三共の

キングスターは展開もスリリングで出玉スピードも速く、人気だった。

羽根の裏のバネの強度を強くし、羽根の開閉を早めたり、役物の下に

厚紙を入れ角度を変えたりと、いろいろとせこい工夫をする釘師も

いたなあ。(僕ではないよ)

 

私が最初に師事した釘師は三共系の釘師で、上げ釘が特徴だった。

当時は機械メーカーも納品時から積極的に釘の調整に関わり、

割数が落ち着くまで、自社の遊技機の面倒を見てくれた。

三共系は上げ釘。竹屋、西陣は若干下げ釘など、それぞれ個性が

あった。

 

師事したといっても手取り足取りは教えてはもらえず、

後ろから手もとを見るだけだった。まあ、食事中にする業界の

よもやま話、割数の考え方などは面白かったし、参考になった。

 

遊技機のガラスは普通の透明ガラスで1台に2枚通していた。

サイズは平和が405×405 だったか。各社微妙にサイズが

異なり、当時からサイズ統一を要望していたが、実現しなかった。


今のような強化ガラスではないので、肘が当たったり、思わず

叩いてしまうと良く割れて、怪我をする客もいた。

 

台によっては玉の飛びが悪く、強くなったり、弱くなったり。

玉を当てて飛ばすバネ先のことを「テッポウ」と言い、球にあたる

箇所の調整を、器具を使ってやっては見るが、構造が単純なだけに、

レールの汚れや角度、ハンドルの飛びの強弱でムラが出るので難しい。

 

ホール勤務でよく呼ばれるのは、遊技玉の表どまり。

玉が釘の間に引っかかり、止まってしまう。

釘師の怠慢だ。釘は放置していると、閉まってくる。定期的に

入賞口をチェックする必要がある。呼ばれると、サービス玉を

決められた数だけ入れるが、同じ台、同じ個所で何度も呼ばれるので

飽き飽きする。


フィーバー機が出始めた頃、大当たりすると、

マイクで連呼していた。

「おめでとうございます。120番台のお客様、

フィーバースタートお~」

「了解!! 120番台のお客様~、フィーバースタート、

ありがとうございます!!」

あちらこちら、終日マイク放送が鳴り響き、客を扇動する。

 

ホールでの喫煙は当たり前だが、飲酒は禁止していた。

敷地内の飲食店で酒を飲んで戻ってくるのは大歓迎。

酒癖の悪い客は厳重注意だ。

 

掛け持ち遊技は厳しいホールと緩いホールと格差があった。

客が少なくても、掛け持ち遊技をさせると、ハンドルの固定遊技も

含めて、ホール内の規範がなくなって客筋が悪くなり、一般客が

寄り付かなくなる。要注意だ。

 

田舎のホールにいた時は、2階の事務所で金融屋(金貸し)もやり、

店長は見た目も実際も「その筋」関係(元)だったので、地元では

揉め事はなかった。

 

遊技台の天板(カウンター)に足を乗せて打つ行儀の悪い客は、

後ろから椅子をひっくり返し(移動式の椅子だった)、注意する

(恫喝)するような店長だったので、無茶苦茶だが、それでも

地元客は「ごめん」と言って納得していたのだから、いまでは

不思議で面白い。


捕まえた不正客(ゴト師)を事務所でボコボコにし、

「山へ捨ててこい」と、

言われた私は困ってしまった。(最寄りの駅で降ろしました)

 

ああ、昭和のホールは、当時は嫌で嫌で仕方がなかったけど、

今思うと、面白かったね。




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