土曜日

あの頃


最初にホールに勤務し出した頃は、パチスロ機の設置は少なく、

総台数300台の店舗では10%の30台くらいの台数だった。

 

記憶にあるのは「パルサー」尚球社、

「アメリカーナ」ユニバーサル、

「ジャックポット」オリンピア。

これらの機種はネットでみると

1980年代発売の0号機になるようだ。


1985年(昭和60年)に新風営法が施行されて初めて

パチスロ機にルール付けされたのが1号機なので、それ以前は

ルール無用のやりたい放題だったわけだ。


「ジャックポット」は岡崎産業だと思っていたが、

オリンピアが先行だったんだね。

他の機種にも同じ名で各社から出されており、ややこしい。

 

勤務先の福井県のホールにはサミー工業のナイアガラ、

日活興業のパルサーXX、パル工業のペガサスなどが設置台数も

少ないこともあり、人気だった。

特にペガサスは朝から並ぶほどだった。

これらは区分では1号機になるようだ。

 

たしか、パチスロ機の設置比率やフィーバー機の比率などは

当時の組合でそれぞれ基準を決め、申し合わせていた。

 

以降、山佐のプラネット、パルサーなどがシリーズ化された。

実際、自分が扱った(設定を入れた)機種は、

主に2号機以降になる。

 

オリンピアのバニーガール(白パネル)、サミー工業の

アペックス、日活興業のフルーツチャンス。この時代の機種は

「かばん屋」も暗躍していて、閉店後のホールではハンダの焼ける

匂いや封印シールをはがすドライヤーの音が夜のしじまに響き、

モーニング用の打ち込み機をセットしながら2時、3時まで

眠い目をこすっていた。

 

3号機になると高砂のドリームセブン、山佐のスーパープラネット、

パル工業のペガサスEXA、瑞穂 コンチネンタル、ニイガタ電子の

リノ、ユニバーサルのコンチネンタルⅡ。3号機は今一つゲーム性が

乏しく、仕込み(裏)モノが多かった印象になる。

 

この当時は入替の頻度も少なく、3か月~半年に一度のペースで

結構多めに入替し、全台打ちの大掛りな開店をしていた。


1992年(平成4年)パチンコのCR機種が出始めた頃より

パチスロ機は4号機の登場となる。

 

技術介入の幕開けとなった「クランキーコンドル」

CTを搭載したBタイプの「アステカ」

AT時代の幕開け「獣王」

BIG1回で平均600枚以上の獲得が可能な「大花火」

711枚獲得の1G連の出玉性能の「吉宗」        

64万台を売り上げた「北斗の拳」、

大都販売の「押忍番長」などなど。

 

パチンコもスロットも出玉性能が飛躍的に向上し、

平成の時代は業界のピークになった。

遊技人口、売上、産業としての注目度も上がる半面、

のめり込みや依存症からの生活破綻や、消費者金融の多重債務

などの社会問題となり、その後は規制、遊技機強制撤去、5号機、

6号機と、性能ダウンによる客離れと、ダメ押しはコロナ渦。

2023年6月の時点でホール数が7000店舗を切っている

ようだ。(平成のピーク時は18000店舗あった)

 

2025年の大阪万博以降は、カジノが新設され、

主にスロット専門の賭場になるようで、水面下での業界団体の

利権争いは、し烈だろう。


過去に強制撤去になったミズホのミリオンゴッドのような一撃

100万円になるような高射幸のゲーム内容になるだろうね。


そもそも遊技でもなく、風営法にかかるわけでもなく、保通協通過の

認定機でもない博打なのだから、言わずもがな、だね。




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金曜日

オオハナビ


大花火。

2000年前後のパチスロ機で、後発の大都販売「ヨシムネ」に

繋がる人気機種だった。アルゼ社の1回のBIGで600枚狙える

大量獲得機種だ。


筐体上部に大きな「鉢巻リール」があり、子役やチャンス告知

などの演出や左側の3連ドンちゃんは見やすく、若年層を中心に

多くのホールで設置された。

 

担当した150台のパチスロ専門店では、「ヨシムネ」

「オオハナビ」を列単位で設置し、売上UPに貢献してもらった。

 

しかし、利益の方はこの機種、思いのほか割数が高くて、

設定①でも機械割数(売上の絡まない理論値)は100%を

超えており、また技術介入度が高く、日によっては持出し

(赤字)になる日もあった。

1回の獲得枚数も多く、出率も高いので、人気を博したのだろう。

 

ユニバーサル・エレコ・メーシー・アクロス・ユニバーサルブロス、

ミズホの6社が1998年に「アルゼ」に社名変更し、その後、

(株)ユニバーサルエンターテイメントに統一、変更された。

 

パチスロメーカーでは上記の各社を揃えるメーカーをけん引、統括し、

何せ2002年には元警視総監がアルゼ社の常勤顧問になったのだから

何をか言わんや、だ。

 

2015年には日電協を脱退し、唯我独尊の経営方針で、その姿勢は

業界では不評、批判も多かったが、発売される機種は射幸性も高く、

ゲーム内容も他社からは抜きん出ており、多くのホールは選択肢のない

購入に憤懣やるかたない状況だったと思う。

 

創業者の岡田和生氏。

メーカーもホールも創業者たちの体質はみな同じようで、ワンマンで

ブラック。良きも悪くも「昭和」の立志伝中の人になるのだろうね。

 

パチスロにハマったあの頃。アルゼ系の遊技機にはいろいろ・・・だね。



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火曜日

思い出の酒井先生


中学2年生の時にクラス担任だった酒井先生。

実家が兵庫県の丹波篠山で農業もされており、クラスで

農作業(稲刈り)の体験もさせてもらった。

(授業で行なったのか個人的な主催だったのか、分からない)

というのも一見強面の教師で、男子生徒からはすこぶる

人気だったが、生徒と喫煙、飲酒をしたこと、生徒の

母親と良からぬ関係になった、とか諸々噂話がいろいろとあり、

学校内では諸問題を抱えている所謂不良教師だった。

私はこの先生が大好きで、親父の酒蔵からジョニ黒ウィスキーを

くすね、先生に渡したところ大いに喜ばれた記憶がある。

 

しかし、もともと抱えていた諸問題で学校を辞めることになり、

実家の篠山市へ帰ることとなった。

 

中学3年の夏だったか、高校生になってからか記憶はあいまいだが、

先生の実家へ同級生数名と1泊旅行で遊びに行った。

 

お父上は地元で中学校の校長先生をされており、その縁で再就職

も同じ中学校の教師を続けるようだった。

 

先生の実家は大きく、大きな庭の縁側で取れたての冷えたトマトに

砂糖をかけ、みんなでいっぱい食べた。夜は、僕ら(7~8人いたか)

のために、軽トラックの荷台に皆を乗せ(違反だが)、近くの山の上に

テントやバーベキューをセッティングし、酒を置いて、一晩自由に

キャンプをさせてくれた。

 

山上は、明かりは焚火だけの電灯一つない真っ暗な状態だ。

生まれて初めて漆黒の闇を経験し、真上には落ちてきそうなくらいの

星々や流れ星が見えた。

 

都会育ちの僕たちは一晩中興奮し、朝まで焚火の前で酒を飲み、

騒いでいた。

翌日、山上の声は下界でも良く聞こえ、「楽しそうだったな」と。

 

その後、違う高校に行った友人たちや、就職した友人もいて、

それぞれ新しい関係ができ、会う機会がなくなった。

酒井先生とはその後、まったく連絡しなくなり、私も今回、FB

友人たちの投稿を見るまで、酒井先生のことをすっかり忘れていたが、

あの日の夏の日の思い出はよみがえった。

 

あー、あの時、あんな先生がいたな。

うん、いい先生だった。




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