月曜日

生きがい


25才から60才ちかくまで続けてきた仕事を辞めてから

3年目になる。前職はブラックだったが、私なりにこだわりや

誇りをもって臨んできた仕事だった。

その成果として肩書や報酬もそこそこ頂いてきた。

 

今は事務員補佐のパートタイマーで、職場は、県内の

大学・企業・自治体などからなる、ある一般社団法人の職員

2名と共同使用している施設の管理が仕事だ。

 

私の属する組織からは私一人ということになる。

 

10年前に大きな心臓手術をしたので、私は1種1級の

手帳を持っている。コロナ禍での2年間の就職活動を通じて、

思いのほか60才の一般の就職が厳しく、最終的に

「障がい者枠」での採用となった。

 

月間120時間の勤務で、施設利用の予約受付、貸出機器の

設置、利用後の室内清掃など、それ以外は机に座って、

終了時間まで、ほとんどかかってこない電話の受付だ。

 

ここ2年間はコロナの影響で、2003年の開業以来、最低の

利用人数となっているようだ。

 

最初の1か月は覚えることもあり、作業の確認などに緊張感も

あったが、仕事内容を一通り把握すると、「留守番」であることが

明らかで、面接の段階ではそれらしい事も言われていた記憶も。

 

責任を伴うような仕事内容は与えられず、ただ、時間内を無難に

過ごせばよい。障がい者雇用枠を守らなければいけないので作った

職域のようだ。前任者もそうだったようだ。


上長の関心も薄く、入社以降10か月で3回しか会っていない。

ほったらかしだ。

本部とのやり取りはメールのみ。電話もほとんど掛かってこない。

業務日誌は毎日つけているが、提出は月初めに1回。

日報ではないね。月報だ。

 

給与を頂く限り、毎日できること、準備することを自分なりに

工夫してきたが、これも障がい者差別だね。個々の能力も見ないで

法的に問題がないように採用枠を確保し処理するだけの職場だ。

 

組織運営上、あっても無くても関係ない(私自身はそう思わないが)

という組織の態度があからさまだ。

 

仕事の「やりがい」が、自分の「生きがい」だった。

 

この「やりがい」のない仕事をいつまで続けようか。

 

「やりがい」のない仕事に意味を見つけて「やりがい」の

ある仕事に替える。

前職の管理者だった時に社内で、講習で、常日頃言っていた。

それが今、試されているのか。

 

今までもそうだったが、自分の評価は、自分でしてきた。

自身に恥ずかしくないよう、契約期間は全うしよう。




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金曜日

「生きる」


小学校1年生から中学3年生まで、9年間同じクラスの

子がいた。当時は小学生で、1クラス40人で6クラス。

年に回のクラス替えだった)

 

中学校は、1クラス40人で14クラスあり、年ごとに

クラス替えがあった。

 

年間も、同じ子と同じクラスが続くことは他になく、

かなりの奇遇、巡り合わせだろうと思う。

 

お互い子供から少年・少女期の成長を横で見てきたのだから、

ドラマなら幼馴染としての運命が展開されていくのだろうが、

その後の再会は45年後の還暦の同窓会となった。

 

お互いに、いい年のおじさん、おばさんになった。

手を取り合って懐かしく再会したが、私も彼女も人見知りを

するような大人しい子供だったと思う。

 

同窓生の中には同級生同士で結婚する友人もいて、人の

つながりはどこでどう転んでいくのか分からない。

 

いまだに幼少期から同じところに住み、職場も地元、の

同窓生もいる。面白くないとボヤいていた。

連絡もつかず所在の分からない人もいる。

早々にあの世に旅立った人もいて、人生は百通りだね。

 

昔観た黒澤明の「生きる」の志村喬の演技は虚無的で、

淡々としていたが、死が間近に来て初めて、自分の最期の

役割を自認していく姿は、当時の日本人の気質なのだろうが

生真面目で重たい。

 

もっとファンキーに生きて死んでいこうぜ。ブラザー。

ってなことで、「生きる」って難しく考えても、なるように

しかならない。

 

身内には迷惑を掛けながらも自由気ままに生きている

「フーテンの寅さん」を観ると、私の死んだ親父を思い出し

懐かしい。自分の人生、好きなように生きていく。

 

周りにすれば困った人だ。

でも、それなりに愛嬌もあり、死んだ後に困らされた人の

心に痕を残す。

 

まあ、仕方のない親父だったよ。ってことで。

 

俺には出来ない人生だけどね。



 


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木曜日

差別とやさしさ


父方の祖父母の記憶は、はっきりと残っている。

祖母には私が30歳の時、妻を伴って挨拶にも

行った。いつものように腹巻に全財産を入れ、

私の手を握り、元気だった。

 

心根の優しい人で、近所に競艇場があったため、

自宅の横の公園には、よく「すっからかん」に

なった、だらしのない人たちが野宿するものだから、

布団を貸したり食事を与えたりする人だった。

 

祖父はそれ以前に早く他界していたが、

後年は二人とも、もともと日本語が堪能では

なかったので、身内での会話はすべて韓国語だった。

 

日本語と韓国語は文法が同じで、似た言葉も多く、

父の世代は、自然とチャンポンして話していた。

 

一度、大叔父が脳梗塞で倒れた時、本人は子供達に

日本語で会話しているつもりだったが、発する言語は

韓国語だったので、周りと意思疎通が出来ずに困ったと、

回復後に後日談として聞いた。

 

上の世代は皆バイリンガルなので、自身の二重性に悩んだ

様に思う。親が生まれた国と、自身が生まれ育った国。

35年間の植民地を経ての戦後の開放は、同化された

多くの在日韓国人の心情に複雑な要素が絡み、差別や

貧困も相まって、私よりも一つ上の世代は気難しい人が

多かったように思う。

 

在日韓国人の親族の中には、一人二人は暴力団関係者が

いる。と言われたこともあり、差別・貧困と繋がって

いるのだろう。

のちにパチンコ業界に入った時に、もと「関係者」から

聞く話では、「盃を交わす中では差別はない」

「ヤクザの世界には同和差別や、朝鮮人差別はなかった」

神戸番町出身の店長から聞いたことがある。

(愛すべき人々・昭和編)

 

幸い私の親族には暴力団関係者はいなかった。

 

大阪の大正区には沖縄出身者も多く、当時は彼らも

在日朝鮮人、部落出身者と同様に差別で苦しんだ。

パチンコ業界には昔から、沖縄出身者も多くて、大阪の

ホールでは島中の補給係は高い比率で多くいたようだ。

 

日本人はやさしく、あからさまな差別はない、という

人もいるが、差別をしたほうは、あまり自覚はないが、

されたほうは忘れない。

 

令和の今になっても、YouTubeなどで見るヘイト

スピーチはひどいね。

平成以降、モラルがなくなったようだ。

今の政治の姿勢が、現状に反映されているのを

多くの知識人はわかっているが、修正できない。

 

「戦前の始まり」とタモリは云ったが、

「始まりが三日坊主」で終わりますように。



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