土曜日

友人たち②


高校時代、私を含めてまわりの友人たちに

一番影響を与えたのは友人のG君だ。

高校時代の彼は才気・才覚にあふれ、

学内では目立つ存在だった。

私を含め友人たちは17歳の時に彼に

良きも悪きも影響された。

 

彼とは高2の1年間だけ同じクラスだったのに

自主映画を8ミリで撮った思い出や、彼に誘われて

美術部に入ったこと、先に紹介したS君や彼の家で

頻繁に徹夜し、飲酒、喫煙に耽ったことなど、この

時の悪習慣が後の人生にも影響してしまった。


60年、70年は安保闘争があったが、

80年の僕らの時代は、自民党一党独裁政権が

基盤を固めつつ、社会への不満は政治に向かう

のではなく、校内・家庭内暴力など内向きな

身近な局面に向けられていた。

 

多感な時期での「政」と「性」への関心と興味は

多分に17才の少年には「性」に傾き、特に彼は

「性」への欲望で、いつもマグマが爆発しそうだった。

 

独身の教師の部屋へ数人の友人たちと

遊びに行った。

みなで興味津々に性に関する話題になる。

彼は我慢できずにその部屋の

押し入れに入り、自ら慰めていた。

担任教師もさすがに呆れていた。

 

二人で彼の部屋で酒を飲んでいると、

「ストリーキングをする」

といって、突然全裸になり、深夜明け方の

阪〇武庫〇〇駅から彼の家まで走り回った

こともあった。

抑圧されていた気持ちが解放され、

気持ちよさそうだった。

 

あれから40年!(綾小路きみまろ風に)

めまい・貧血・不整脈。

頭痛・腰痛・関節痛。

老眼・物忘れに・娘が嫌がる加齢臭。

顔に刻まれた、しわとしみ。

薄れた感受性と頑迷な思考。

それでもまだまだ死ぬわけにはいかない。

友たちよ。いつでも、どこかで、ひょっこりと

会って、話して、飲んで、楽しもう。




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友人たち①


高校二年の夏。友人の家でサントリーレッドをストレートで

いい気になって飲んでしまい、二人ともかなり酔ってしまった。

友のS君は当時から今に至ってかなり無鉄砲な男で、酔った

勢いで、自宅近くの公園の周辺に止めている自動車の上に

よじ登り、車の屋根から屋根を凹ませながら飛び回っていた。

「これはやばい」

見つかれば大変な弁償になるや、と、私は彼をなだめ、家へ

連れ帰る途中、警ら中の巡査に補導されてしまった。

 

未成年の喫煙・飲酒で交番所で調書を取られ、すっかり

酔いが醒めてしまったが、ボンネットに飛び乗った破壊行為は

後々も問題とはならず幸いだった。

 

この一件は学校へ連絡され、体育教師からは手厳しい注意を

受けたが、今も当時も当の本人には記憶がないようだ。

 

彼とは、大晦日に「初日の出」を見に行こうとバイクで

向かう途中、後続の私の前で、彼は信号無視で右折し、

タクシーと衝突事故を起こした事もあった。

 

タクシーの運転手のおじさんは、

「20年以上、無事故無違反だったのに・・・」と

病院の待合で同席した私に嘆いていた。

 

彼とは12年ほど前、FBを通じて再会した。

卒業から再会まで30年近くの空白の期間は長いが、

お互い様々な経験や出来事があり、共に頭髪は白く

なったが、すぐに学生時代の関係に戻れたと思う。

 

その彼も最近、脳梗塞でリハビリ中だという。

だが、大丈夫だ。

彼は武〇〇荘のジュリーと言われた男だ。

また、元気になって、暴れましょう。Sくん。

私は傍観していますが。。。




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火曜日

これから


このブログを書き出したときは、業界歴も

30年以上あるし、当時の出来事を思い出して

いけば、ネタはそこそこあるだろう、と

高を括っていたが、200話くらいから

パチンコ関連の話題も尽きてきた。


今までの経営者とのやり取りやブラックな話も

まだあるが、迷惑が掛かることもあり、

しばらくは、あまりパチンコ内部のことには

拘らないで、思いついたことを気ままに

綴っていこうと思う。


振り返れば、

私がP業界に入ったのは昭和62年だ。

それまで兄の経営する喫茶店を兄妹で

手伝っていたが、人手不足でもあり、祖父母、

叔父たちが親族間で話し合い、家業を継げない

甥っ子たちを、それぞれ預かろうとなり、

同じ年のいとこは1番上の叔父の経営する

大阪地区のP店へ。

私は4番目の叔父が経営する福井県のP店への

就職が決まった。

 

上の世代は兄弟が5人、姉妹が2人で、

そのうちの長女である大叔母が嫁いだ先が

パチンコ店だった関係で、長男(大叔父)、

四男がそこで経営の指南、援助を受けて

パチンコ業に入った。

 

私の父は二男だが、長男がパチンコ業へ

転身したため、父(祖父)の運送業を継いだ。


1番下の叔父(五男)は秀才で、日本の大学を

卒業後、韓国の大学院にも行き、韓国大使館に

勤務(金大中拉致事件の前に辞めていて、

もう少しいれば巻き込まれて大変だった)。

 

関西の大学の講師などで働いていたが、当時は在日

韓国人の大学教授登用はなく、研究者の道を諦めて

大叔父のパチンコ店へ転身したが、学問と商売は

別物だったようで、最後まで1店舗も持たせて

もらえなかった。

本人にもそういう欲がなかったのかもしれない。


 私が20才になるころには、それまでの

父の放蕩が原因で、せっかく継いだ会社の経営は

破綻していた。(のちに大叔父が買い戻した)

同じ年のいとこの父は三男だが、この叔父も商売が

うまくいかず、今後のことを考え、私と同様に

P業界への転職となった。(民族系の銀行にいた)

私も、同じ年のいとこも、今でいう「親ガチャ」で

外れを引いてしまった。それは私の妹も同様だ。


私は叔父の会社で5年ほどお世話になったが、

自ら飛び出し、求人誌の応募で転職した。

その後、親戚筋の同世代の中で、身内以外で職を得て、

他人様の会社で生計を立てて生きてきたのは私だけ

だったようで、その一点だけは、兄に褒められた。

 

しかし、他人の会社で職を得られたのは、いい加減な

仕事ぶりだったが、4番目の叔父のパチンコ店で

ノウハウを教えてもらったおかげだ。同じ業種で

私なりに苦労はしたが、なんとか生き残って来た。

 

クセのある人種のなかで揉まれながら、あと一歩を

踏み外さずに歩いて来られたのも、いままで関わって

きたまわりの人々のおかげだ。今になってそう思う。

当時は、ありがたさを感じなかった。

 

人の上で立ってやって来られたのは、

人の下で支えてくれる人がいたからなのに、

当たり前のように過ごしていた。

 

だから今も私の周りには人がいないのだ。

 

これからは、私は人の上に立って

仕事をすることはないだろう。

いかに人の下で誰かを、何かを、支えていけるかが、

残りの人生の役回りだと思う。



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