金曜日

反省


酒とたばこは10代の後半から飲みだした。

もともと、酒の強い体質ではなかったが、

普段から習慣づくと、けっこう飲めるようになった。

 

パチンコ業界に入って、営業部で統括するような立場に

なってからは、深夜遅くまで車の運転もあり、また夜間、

早朝の警備会社からのゴト関連の呼び出しが頻発していた

時期は、さすがに飲む時間もなかった。

酒をたしなむのは、帰宅深夜に休日前に

寝酒で飲むくらいだった。

 

昭和の終わりごろ、まだ飲酒運転に対する認識が

低かった時代に、飲み屋街から一人で帰る途中、

酔いもあってあまりにも眠いので、路肩に止めて

仮眠後、もう大丈夫と運転を再開し帰宅途中、

また眠ってしまった。

気付けばトンネルの手前で右側のガードレールに

衝突し、反動で左側にも跳ね返って、目が覚めた。

一瞬で睡魔と酔いが吹き飛んだ。

 

田舎の深夜で、交通量も少なく、トンネルの手前で

車両の破損だけで済んだ。

トンネル内であれば大変なことになっていた

かもしれない。

 

そのトンネルは地元では「出る」ことで

有名な場所だったが、私はトンネル内に

誘われることなく、助かった。

 

車は1週間前に、社長から買って

もらったばかりの新車だった。

会社名義の車両なので保険会社に連絡し

処理すればよかったのに、社長に内緒にするため、

こっそり修理にかけ、大きな修理代がかかった。

 

私には都合の悪いことを隠そうとする裏の顔がある。

自分の失敗をもっとオープンにすれば楽になるのに

隠す。内緒にする。今の自民党政権みたいだ。

 

子供の頃からの内向的な性格が

「事があったとき」に

出てしまうね。大きな反省だった。




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木曜日

ワーファリン


10年前に大動脈弁狭窄症のため人工弁の

置換手術をした。

それ以降、3か月に1回は血液検査をし、

血液をサラサラにするワーファリンという薬を

毎日5.5錠服用している。

10年間、5~6錠の間の処方なので

安定しているようだ。

3~4錠が一般的には多いようだが、

私は最初から効きが悪く、錠数は多いようだが、

毎日飲むものなので個数は気にならない。

 

人工弁は身体にとっては異物なので、

血液は凝固しようとする。

ワーファリンは、血液を固めるときに必要な

ビタミンKの働きを抑え、血栓(血液の塊)が

できないようにする薬だ。

 

ビタミンKを摂ると、ワーファリンの作用と

逆に働いてしまい、ワーファリンの作用が

弱まってしまう。

 

納豆には、ビタミンKが大量に含まれている。

納豆を食べるとビタミンKの働きが活発になり、

ワーファリンが効きにくく、今後、食べないようにと

薬剤師からの指導だった。

 

私の主治医は鷹揚な人で

「気にせず、たまには食してもよし」

「薬を1回分飲み忘れたと思えば問題なしだ」

 

だが、薬は服用すると3日後に作用するので、

3回連続の飲み忘れは危険だと注意を差された。

 

 

以前、70才上の高齢の患者が受診に来ないので

確認すると、数か月間ワーファリンを飲んでいなかったが、

血栓などは出来ず、健康を維持していたらしい。

高齢で血が薄く、体質的に大丈夫だったようだが、

それが継続できるかどうかは保証できないとの事。

 

薬を飲み忘れ、血栓で梗塞になる高齢者も多い。

 

旅客機事故で奇跡的に無人島に漂着して助かっても、

私は薬がなければ、血栓が、心臓か脳で詰まれば

終わってしまう。

 

「奇跡の生還劇」は、私の書棚にはない。




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記憶


北海道で2年間過ごしたことがある。

札幌から近く、江別市というところだ。

 

昭和56年頃で、市営地下鉄の東西線の

延伸工事をしていた。現在の東豊線はなく

南北線、東西線の2線だった。

 

当時は、現在よりも温暖化の影響は出ておらず、

夏の海水浴期間は2週間もなく、夏場でも暖房器具は

片づけずに冬に備えていた。夏場でも涼しかった。

 

「すすきの」は昔も今も賑やかな繁華街で、

いろいろな業種が雑多に詰め込まれていた。

 

初秋の羊蹄山へキャンプに行き、夏用のテント、

寝袋だったので、朝は霜が付くような寒さで

凍えてしまった。

 

札幌から小樽までの40キロを歩き、

車の排気ガスで真っ黒に。

 

初めての冬の北海道では、朝、玄関扉が降雪で

開かず、窓から出入りした。

 

スキー場はパウダースノーで、サラサラで転倒しても

濡れないので地元の子はジーンズで滑っていた。

 

20代の記憶はますます断片的になる。


当時は今のように携帯やスマホもなく、

フィルム写真を撮る習慣もなかった。

 

心地よいものも、不快なものも、一緒くたになって

当時の「記録」は、頭の中の淡い「記憶」だけだ。

 

平成以降、令和の子供たちは、生活の中に

「写真」「動画」が入り込み、

彼らが老人になっても、「記憶」は鮮明な

「写真」「動画」と共に残されるのだろう。


過ぎ去ったものや、忘れられたものへの

甘い記憶や恋慕などのあやふやな記憶はなく、

時々の写真、動画を見直すことで、客観的に過去を

振り返るのは、どんな気持ちになるのだろうか。




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