金曜日

秘密基地

 

昭和52年に父母が初めて家を購入するまでは

それまではずっと借家暮らしだった。

借家の二階の6畳間の押し入れの天井板を外すと

屋根裏部屋に上がれる。

そこが私の秘密基地だった。

母は知っていたのかどうかわからないが、

小4くらいまではそこで友だち数人と

ろうそくを立て遊んでいた。

子どもとはいえ天井板も落ちず、

また古い木造の家屋で子供でも屋根下に

頭が付くような空間でろうそく遊びを

していたのだから今から思うと怖ろしい。

 

寝ているときによくネズミが走り回っていたが、

わたしが天井裏に上がっても、

一度も出会わなかった。

「トムとジェリー」の影響で

その年齢くらいまでは

ネズミは怖くなかったのに。






木曜日

光化学スモッグ (尼崎)

 

昭和46年ごろ、小学校の朝礼は

校庭で行われることが多かった。


校舎の近くにポールがたっており、

行事の時は校旗や国旗が掲げられる。

その横にもう1本黄色か赤か記憶があいまいだが

「光化学スモッグ」の警報旗が時期によっては

頻繁に出され、女児や虚弱体質の子が

バタバタと倒れたことがあった。

 

当時日本は「公害天国」といわれていた。

近くの川ではメチル水銀が、

山へ行けばダイオキシンが、

テレビでは水俣病やイタイイタイ病が

連日取り上げられ、現実では市内南部を

自転車でひと廻りすると白いシャツが

煤で真っ黒になるぞ、とおどされた。


同じクラスの男の子は

サリドマイド児で両腕がなかった。

ぜんそくの子も多くおり、今から考えても異常だ。

 

日本は高度成長時代の真っただ中で

世の中がある種の

狂気に包まれていたのかもしれない。

 

当時はサリドマイドの子や知的障害児も

同じ教室で学んでいた。

彼は両足の指を手のように器用に使い

一緒に給食を食べたり、他の子供たちと分け隔てなく

一緒に授業を受けていた。

しかしある時期から彼らは隔離されるようにクラス

分けが始まり、それ以降一緒になることはなかった。


のちに彼は若くして亡くなったと、

知人から聞いた。

残念だ









改造  (昭和)

 

近場に夏の間だけ

バラック小屋で経営するパチンコ店があった。

夏場は海水浴、釣り客、その宿泊客などが集まり、

屋台などの露店も出て、的屋みたいなものだ。

パチンコ機やスロット機を打たせ、

ちょっとした景品と交換させていた。

 

当時の法的な区分がどうだったのか不明だが

一応遊技組合にも加入し組合会議にも出ていた。

遊技機は近隣の店舗から不要になった台をもらっていた。

当然当時から風俗営業法はあったので、

遊技台の許認可検査は所轄警察が行っていたはずだが、

そこのオッサン経営者曰く、

「玉が出ちゃうと赤字になって困る。

だから玉が入るところにもう1本釘を打って、

入らないようにした」

 

「!?!?」

 

釘を勝手に追加すると違法改造だ。

 

そんな感じでも3シーズンくらい不定期に営業していた。

 

世の中がいろいろな面でゆるかったんだね。

 

 

 


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