木曜日

空手


14、5歳の頃、「空手バカ一代」という

漫画本の影響で、近所の町道場へ空手を習いに

行っていた。剛柔流という流派だった。

月謝は1500円だったか。

どうも、私は子供の頃からすぐ漫画本の影響を

受けるようだ。

 

詳細な場所は忘れたが、近所の寺の中の一角で、

屋根もあり、下は土間だったが、十分なスペースがあった。

 

師範は○○兄弟と地元では悪名だった

30才前後の兄、弟だった。(後で判った)

 

当時、フルコンタクトの「極真空手」の大会の様子が

映画で話題にもなり、その大会に、その兄弟も登場していた。

 

ここの道場も、顔面への拳突きはNGだが、

それ以外は「極真」と同じ形式で打撃OKだった。

 

この二人が一緒に練習に参加していると、大変だった。

 

兄の師範代は100キロ近くの体躯で、突き押しで攻め、

弟の副師範代は中肉中背だが、俊敏で廻し蹴りが得意だった。

 

兄のほうは、よく赤ら顔であきらかに飲酒をしていた。

弟のほうは、乱暴者で、まだ素人同然の練習生に

「後ろ引っかけ蹴り」で顔面を攻撃し、練習生の左目には

おおきな「痣」ができていた。

 

練習生の前で二人は、よく喧嘩をしていた。

まさしく、漫画の中に登場してくる、

悪役側の師範、副師範代だった。

「品性下劣」で「暴れん坊」、ガラの悪い町の道場主。

 

練習生は、小学生が数名おり、10代は4名、

20~30代とみられる青年も6名ほど。

 

毎回、10人前後参加していた。

喧嘩が強くなれると、みな単純に思っていた。

 

二人は、空手は強かったかもしれないが、

教育者としては最低だった。

 

よく、みんな来ていたものだ。

 

当時は保護者も誰も見学に来ないし、

子供たちも親には何も言わなかった。

 

道場へは喧嘩の仕方を習いに行っていたようなものだ。

それはそれで、存在意味はあったのかもしれない。 




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火曜日

お客様


25歳。初めてパチンコ業界に入ったとき、パチンコ店の

「店長」には、なれないだろうな。というよりも、無理だ。

出来ないな、というのが実感だった。その時は。

 

「ど、ど、どうすりゃあ、いいのだ」

 

昭和の頃は、「暴力団対策法」もなく、対暴力団に対しての

店舗内の揉め事は民事不介入で、暴行傷害などの事案が

絡まないと、警察に連絡しても取り合ってくれない。

 

遊技客の中には現役の方もいるが、

組の名前を出してパチンコ店で暴れる本職の方は

まずいないので、暴対に関しては、現場よりも、

経営者サイドの付き合い方の問題だろう。

 

パチンコ店は、どう体裁を繕っても、

勝ったり負けたりするゲーム(博打)場なので、

玉が出ないときなどは、ホール内も殺気立って来る

ときもある。

 

対ヤクザというよりも、普通にヤンチャな方もいるし、

普通に文句を言う客もいる。

一般の普通の少しガラの良くない遊技客に対しての対応の

問題がほとんどで、どんな企業、会社、店舗でも、

苦情に対応する基本は一緒だ。

 

台を叩く。店員の注意も聞かない。

「責任者を出せ」

 

少し興奮が治まるまで、応対者を変え、応対場所を変え、

誠意をもって対応していく。だけだ。

 

時間をかけ、事情も察し、気持ちも考慮し、お話するが、

それでも納得されない。

 

「ど、ど、どうすりゃあ、いいのだ」

 

最後は、

「店へのクレーム」には、

こちらも「客へのクレーム」で対応させて頂きます。




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月曜日

新台調整

 

深夜1時くらいから、新台の釘調整を始める。

台数は18台ある。すべて同じ機種だ。

 

天釘から均等に下方向へ釘の角度を合わせていく。

大半のメーカーの釘の角度は、新台の時から

上向きで、5°前後で、納品される。

 

以前見た、遊技機製造工場での紹介ビデオでは、

機械でセル合板に釘を打ち付けていき、

最後に人の手で、ばらつきをハンマーで修正していた。

 

最近は、そういうひと手間もメーカーでは

省いているかもしれないが、「藤商事」社のパチンコ機は、

納品時から釘の並びが、きれいに統一されているので、

納品前に、人の手で揃え直していると思う。

 

以前いた会社の方針として、釘の高さは地面に対して

並行だが、それだと、遊技台は3分から4分5厘で少し

寝かせているので、板に対しては、かなりの下げ釘になる。

 

釘は上げると、遊技玉に絡みやすく、

玉の勢いを殺して甘くなる。

下げると、滑りやすく、玉の勢いも増し、

玉が暴れるので、辛くなる。

 

羽根物のドボン=はかま

(始動チェッカー上の並び釘)も、

左右大きく割って、遊技玉を暴れさせ、かつ、

指導チェッカーの足二本釘も、

見た目は広がって甘そうに見せ、実際は、

あまり入らない釘に、意図的にしていた。

 

当時在籍していた会社の方針は、全部の釘を、

同一の高さ、同一の角度に、合わせなければ

いけなかった。

上から順番に左肩まわり、風車上、左袖。

次は右から、同様の手順で調整していく。

次はアタッカー、下部のあまりゲーム性に

関係のない釘も残さず叩き直す。

命釘周辺のケリ釘、誘導釘、すべり釘も

全台、同じ「釘」に合わせる。

 

これらの手順を飛ばすと、叩き忘れの箇所が

出てくる。最後に、立ち上がって、上から

真っすぐかどうか、再確認する。

横から、目線を上から下へゆっくり降ろしながら

高さが同一かどうか、再確認する。

 

昭和の時代、最初に教わった「釘師」には

釘をきれいに同一にするような意識はなかったと思う。

実際、中腰で、立ったまま調整していた人もいた。

 

今でこそ、中古移動の際は、「釘シート」で釘の頭を

シートに点で合わせる作業(釘を極端に曲げる行為の防止)

もあるが、当時いた会社は昔から「統一ゲージ」として、

各、機種ごとにシートに全部の釘の頭を点で記入し、

チェーン店で共有していた。

 

私の感覚では、マジックで釘の頭を点で記しても、

ミリ単位では誤差も多く、手間暇だけかかり、

無駄な作業だったと思うが。

 

大切なのは、釘に対して、1本1本、正面から

真っすぐに見る目線を養うことで、より正確に、

早く、たたける。数本叩くごとに、上から横から、

確認していたのでは時間が掛かる。まっすぐ見て、

真っすぐきれいに叩ければ、上、横は、

最後の確認だけで良い。

この感覚が、はっきりと自信として出て来るのに、

こういう意識で、毎日毎日たたいて3年ほどかかった。

 

ここまで苦労しても、18台はすべて同じ

データには、ならない。

設置した遊技台の歪みや勾配の誤差、

セルに打たれた釘の最初からの誤差など、1台1台、

少しずつ違うからだ。

 

新台調整に完全はなく、

「平均値に近づけるため」完璧な調整を

目指す、のだ。




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