木曜日

たのもし


当時在籍していた会社の社長が参加している

「頼母子講」に代理として、何度か行かされた。

 

社長自身は、知り合いを通じての会だったが、

渋々参加しているようで毎回行くのを嫌がり、

私が何回か代わりに行った。

 

月10万円を毎回10人が持ち寄り、集まった

100万円を順次利用していくシステムで、

持ち越しもあり、緊急時にまとまったお金が必要な

時は助かる互助会(共済金)みたいなものだ。

 

毎月10万円は額が多く、参加者の大半は自営業者が

ほとんどで、「反社」関連の方も数名参加しており、

それが、社長が行くのをためらう理由だった。

なら辞めればいいのに、従来の弱気と、

昔からの縁で断れない。

 

その知り合いは、元々は「堅気」だったのが、

その筋関係に興味があり、若い時から素地が

あったのだろう。「企業舎弟」として、

その組織でもなかなかの立場の人もいた。

 

私とも同世代だったが、代理で来た私とは話が

合わず、懇意にはならなかった。

 

私はヤクザには興味もなく、その世界のことは

P業界に入った時によく聞かされていたので、

「ブログ・原点(昭和編)」

個人的な付き合いは一切お断りしてきた。

 

経営者である社長が、このような会に従業者(私)を

参加させることの危うさ。

 

ブログ・奮闘記1(平成編)にも記載したが、

会社に反社が入り込む原因を経営者自らが

作って来たのだ。

 

私がヤクザに興味があったなら、元の木阿弥だ。

会社を食い物にして、かき回し、利権を作っていただろう。

 

私のような良い人間で良かったでしょ。社長。




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月曜日

予感


昨日、走行中から見るパチンコ「マルハン」は

久しぶりに駐車場が満杯だった。

コロナ以降、その前後に近隣で大型店が出来てから

そこの「マルハン」は苦戦していた。

 

処女開店当初から数年間は、地域一番店になり、

全国に多数あるマルハン系列店のなかでも、上位に

位置する稼働、客入りだったと業者経由で聞いていた。

 

遊技組合の支部会議などで、開店時よりそこの店長とも

何度か雑談を交わしたが、新卒より6年程でマネージャー

となり、2年間隔で移動転勤も多く経験する社内では

昇進組の一人のようだ。

 

「マルハン」は私が業界に入ったころは神戸周辺で

数軒もつ関西のローカル店だった。

 

一時期、ボーリングブームに乗って多角経営に乗り出し、

苦境に陥ったホールも多かったが、マルハンもそうだった

と聞く。パチンコ営業では関西から、静岡地区出店以降、

一気に拡大して苦境から脱出し、いまの全国多店舗経営の

礎になったようだ。

 

許認可営業であるパチンコ店は、さまざまな法規制の

縛りのなかで同じ許可基準で、遊技設備や遊技機は、

同じ機械を使い、同じ交換率で同じように営業している。

 

もともとは地方で2~3軒だった会社が

今も2~3軒と今や300軒の差。

 

どの業者も同じ土俵で同じようにスタートしたのに、

この差はエグいね。

 

まさか、一法人、同一経営者が

300店、400店(ダイナム)も持つとは。

 

業界に入った35年前の時は夢にも思わなかった。

こんなに大きくなると、パチンコ店はなくならないね。

コロナで減った客も、また、戻りそうな・・・予感。




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改心


私は30才から管理職の立場で仕事をしてきた

関係か、いつも家族から外では

「態度がデカく、横柄でエラそうにしている」

と非難される。

 

ものの言い方や、人と接するときに知らず

知らずのうちに上から目線で接しているようだ。

自分ではそういう自覚もなかった。

それなりに年を重ねて、まわりは年下ばかり。

敬語を使うことも少ない。

 

別れるときは「ご苦労さん」

お願いするときは「頼むで」

相槌は「そうやな」

 

です、ますが、確かに不足している。

これは改めなければいけない。

 

これまでの人生では、舐められないように

虚勢を張って生きてきた。

目を配り、事前に予防線を張って、用心深く、

足元をすくわれないように気を張っていた。

パチンコ屋を辞めたので、

もうそんな必要もないわけだ。


 孔子曰く、60才は「耳順」だ。

まわりの意見を素直に受け入れよう。


嫌われる老人にはなりたくない。

ご令嬢から

「可愛らしいおじい様ね」と言われたい。




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