火曜日

なあなあ


10年ぶりの寒波が来ると昨日からテレビで騒いでいる。

冬季、寒くなる時期は自宅の外の水道管には凍結防止のため

梱包用の布を巻いている。

自家用車の冬用タイヤは昨年12月に交換済みだ。

 

ここに引越ししてすぐ大雪が降った。

以降、町が山の谷間に位置することもあり、毎年のように

何日間は結構な雪が降っていたが、ここ10年は車の交換

タイヤが無駄足になっていた。実際、年に1~2度くらいの

軽い降雪なら、もう冬タイヤは必要ないだろうと思いつつ、

毎年末に交換してしまう。


もっと田舎に住んでいた時は場所にもよるが頻繁に

大雪が降っていた。

アイスバーンにもなれば、スタッドレスタイヤでも滑り、

坂道では、ちょっとした衝突は日常茶飯事だ。

 

地元では車のバンパーはぶつけても良いものとして

認識している。 

「ごめん」

軽い接触なら、これで済んだ。

 

少しでも傷が付くのが嫌なら、冬季は車に乗るな。

路上駐車も同様・・・だったのだけど、

だんだんと皆の意識も変わってしまい、ちょっとした

接触でも、事故証明等で110番、となった。

 

昔は「なあなあ」で済ませていた。

世の中は世知辛くもなり、互いに妥協し合うことも

なくなった。

「なあなあ」で適当に済ます前提では、互いの信頼も

あったはずだが。

 

だが組織になると、「なあなあ」で済ましてしまうと、

コンプライアンスが守れず、談合や悪しき習慣となり

ルールがなくなる。

 

「なあなあ」はあまり良い意味では使われないね。

 

「なあなあ・・・いいだろう?」

と高を括っていると、肘鉄をくらう。

男女の仲の「なあなあ」も、むずかしいね。




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月曜日

生きがい


25才から60才ちかくまで続けてきた仕事を辞めてから

3年目になる。前職はブラックだったが、私なりにこだわりや

誇りをもって臨んできた仕事だった。

その成果として肩書や報酬もそこそこ頂いてきた。

 

今は事務員補佐のパートタイマーで、職場は、県内の

大学・企業・自治体などからなる、ある一般社団法人の職員

2名と共同使用している施設の管理が仕事だ。

 

私の属する組織からは私一人ということになる。

 

10年前に大きな心臓手術をしたので、私は1種1級の

手帳を持っている。コロナ禍での2年間の就職活動を通じて、

思いのほか60才の一般の就職が厳しく、最終的に

「障がい者枠」での採用となった。

 

月間120時間の勤務で、施設利用の予約受付、貸出機器の

設置、利用後の室内清掃など、それ以外は机に座って、

終了時間まで、ほとんどかかってこない電話の受付だ。

 

ここ2年間はコロナの影響で、2003年の開業以来、最低の

利用人数となっているようだ。

 

最初の1か月は覚えることもあり、作業の確認などに緊張感も

あったが、仕事内容を一通り把握すると、「留守番」であることが

明らかで、面接の段階ではそれらしい事も言われていた記憶も。

 

責任を伴うような仕事内容は与えられず、ただ、時間内を無難に

過ごせばよい。障がい者雇用枠を守らなければいけないので作った

職域のようだ。前任者もそうだったようだ。


上長の関心も薄く、入社以降10か月で3回しか会っていない。

ほったらかしだ。

本部とのやり取りはメールのみ。電話もほとんど掛かってこない。

業務日誌は毎日つけているが、提出は月初めに1回。

日報ではないね。月報だ。

 

給与を頂く限り、毎日できること、準備することを自分なりに

工夫してきたが、これも障がい者差別だね。個々の能力も見ないで

法的に問題がないように採用枠を確保し処理するだけの職場だ。

 

組織運営上、あっても無くても関係ない(私自身はそう思わないが)

という組織の態度があからさまだ。

 

仕事の「やりがい」が、自分の「生きがい」だった。

 

この「やりがい」のない仕事をいつまで続けようか。

 

「やりがい」のない仕事に意味を見つけて「やりがい」の

ある仕事に替える。

前職の管理者だった時に社内で、講習で、常日頃言っていた。

それが今、試されているのか。

 

今までもそうだったが、自分の評価は、自分でしてきた。

自身に恥ずかしくないよう、契約期間は全うしよう。




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金曜日

「生きる」


小学校1年生から中学3年生まで、9年間同じクラスの

子がいた。当時は小学生で、1クラス40人で6クラス。

年に回のクラス替えだった)

 

中学校は、1クラス40人で14クラスあり、年ごとに

クラス替えがあった。

 

年間も、同じ子と同じクラスが続くことは他になく、

かなりの奇遇、巡り合わせだろうと思う。

 

お互い子供から少年・少女期の成長を横で見てきたのだから、

ドラマなら幼馴染としての運命が展開されていくのだろうが、

その後の再会は45年後の還暦の同窓会となった。

 

お互いに、いい年のおじさん、おばさんになった。

手を取り合って懐かしく再会したが、私も彼女も人見知りを

するような大人しい子供だったと思う。

 

同窓生の中には同級生同士で結婚する友人もいて、人の

つながりはどこでどう転んでいくのか分からない。

 

いまだに幼少期から同じところに住み、職場も地元、の

同窓生もいる。面白くないとボヤいていた。

連絡もつかず所在の分からない人もいる。

早々にあの世に旅立った人もいて、人生は百通りだね。

 

昔観た黒澤明の「生きる」の志村喬の演技は虚無的で、

淡々としていたが、死が間近に来て初めて、自分の最期の

役割を自認していく姿は、当時の日本人の気質なのだろうが

生真面目で重たい。

 

もっとファンキーに生きて死んでいこうぜ。ブラザー。

ってなことで、「生きる」って難しく考えても、なるように

しかならない。

 

身内には迷惑を掛けながらも自由気ままに生きている

「フーテンの寅さん」を観ると、私の死んだ親父を思い出し

懐かしい。自分の人生、好きなように生きていく。

 

周りにすれば困った人だ。

でも、それなりに愛嬌もあり、死んだ後に困らされた人の

心に痕を残す。

 

まあ、仕方のない親父だったよ。ってことで。

 

俺には出来ない人生だけどね。



 


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